蘇陽學人「高千穂紀行」 (緒方俊輔)


Facebook友達の渡辺一弘さんがメッセンジャーにて教えていただいた新聞記事です。
コピーが潰れていたり擦れていて読めていない部分もありますが、およその意味はわかると思います。
熊本の人が短期間の旅行で思ったことなどを残したもので、宮崎県の人から見たら違うよと言われる部分も
多々ありますが、歴史的な資料として暖かい気持ちで読んであげてください。
ガイドをしている人たちにとっても知らなかったという部分も多いと思います。
最後の方で、「案内板がきちんとしていたことは、旅行客にとって嬉しい」みたいなことを書いています。
今後の町づくりに生かして行かないといけない事柄でもあります。
渡辺一弘さん、ご教示ありがとうございます。



明治24年9月2日熊本新聞
「蘇陽學人『高千穂紀行』

馬見原から三田井まで

馬見原を発し鏡山の麓を左廻して半里程にして境の松と云う地に至る。
日肥の境界にして此地に蠟石を産す。其質佳良ならず。只頑弄品として一二塊を取るものあるに過ぎず。此山の後方に鉱坑あり。現に採掘し居れりと云う。只驚く。高山駿嶺深谷幽渓至る所奇ならざるはなく日向の地に入りてより以来殆ど仙境に遊為か如く。眞は千伋の嶽を封して嶽愈々高く。霧は万丈の谷を塞ぎて益々深きの感あり。鳥路幽渓人家散點。仰て落ち伏て降り険故己に数十欺く。三田井に達す。此間六里と云へども殆ど十余里を踏むの思ひあり。途中、芝原押方の村落間々茶店を設けて旅人の足を留むるものあり。此間の地名蹟鳥て求むるもの少なく、押方の地に能登守教経の墳墓と称するものあり。二上山は雌雄二峯高く南方に秀て天を突けり。山腹に二上神社ありて有名の霊地なりと云ふ。其近傍に天の吊り橋、産の盥と云ふものありて、孰れも諾冊両尊の古蹟なりと云ふ。
物産。両山の間較平坦なる地は殆んど開墾して畑となし、第一に栽るもの麻苧にして是れぞ此地有名の物産にして各家の専業皆之に在り。畑地の八九分之を以て占め当時刈り揚げの最中にて非常に繁茂し一見其名産たるを知るに足る。其他玉蜀黍や蕎麦等、執れも地味に適し阿蘇郡の及ぶ處にあらず。又、茶・椎茸等主要の物産なり。苧コギ小屋 山間に渓流に添ひて矮少なる藁小屋を構ふるもの至る處に之を見る。是れ苧を晒しコギて精良ならしむる處にして、苧を刈り揚げ蒸て皮を剥ぎ烈る後、此處にて精選すると云へり。此業農家婦女の専務にして一年の内四分の三の日には之に費せりと云ふ。夜分に至るまで若き男女打交り小屋にて仕事をなせに風俗を壊るの弊習を亦少なからずと云う。焼畑。山腹の猥薗を拓き焼きて焦土となし、粟黍蕎麦を栽るに一年は非常に上作ありと云ふ。此辺至處に此を見る。三田井より天の岩戸まで三田井より天の岩戸まで一里半。高千穂の名跡は多く此地に在り。始めて至るものは案内者を雇はされば其の奇を探り尽くすこと能はず。三田井の駅を発して少しく後に戻り先づ荒振神鬼八塚 路傍に見る程のものなし。十社大明神 祭神三毛入野命並に御配偶御子六人侍人二人を合わせ祀ると云ふ。命は神武帝の御兄に當らせ玉ふと云へり。當時此地に荒振神あり。鬼八と云ふ。命之れを征して虜となし、其体を斬り、頭は阿蘇霜宮に埋め、体は即前の鬼八塚なり。本社は郷社にて旧記に有名な旧社なり。鬼八丸の剣及び蜘蛛切り丸の剣を納む。彫刻のために社格を損す。社殿綺麗にして種々の彫刻あり。その内に苧漕小屋の彫刻あり。小屋外より一人の男来りて婦人に戯れんとするの図のよしなり。此彫刻なかりせば縣社に昇格あるべき筈なるものを残念の異なりと所の人は云へりき。鬼の岩屋 奇中の奇怪中の怪は此の處にあり。社殿後方樹林の中を降ること数町。数百尋の懸崖屏風を立つる如く大樹鬱蒼の間より下の瀬、深渓水併りて石を噛むの音萬雷の如く急穏色緑にして龍蛇棲むか如し断崖の中に壁を築きたるもの八ヶ併立して各匍匐にて登ることを得、絶頂皆一株の木あり。壁間拒距ること僅かに数間なりと雖も数十歩の後に復せさば更に登こと能はず也。その形同一にして狭合僅かに足を運ばすべく、若し一歩を誤るときは落ち墜すべし。八ツの峯、九ツの谷越えて鬼の窟に達す。戸巌大樹の間に洞窟あり。暫く歩を移して較平易なる地に出つ此の辺総べて健児壮者にあらざれば至ること能はず。誤りて命を墜せしもの既に近年の間に六名ありと云も以ての太険を察すべし。

明治24年9月3日熊本新聞
「蘇陽學人『高千穂紀行(續)』

三田井より天の岩戸までの続

此近傍の旧跡には皆縁起あり。然りと雖も牽強附會のこと飲みなれば詳細なることは實地に就きて探究することとなし、先づ鬼の岩屋を出て往還に出つ。即ち馬見原より延岡に通ずる道路なり。此近傍に架する橋三あり。神渡橋・御橋・神橋と云ふ。皆神代に縁あり。橋下水面を距る。孰れも一間に近く両岸愈々迫りて水勢益々減する處なれば、岩鳴り水踊り一見開泉を生ず。神橋の真下の滝壺は水中深さ五十尋に及ぶと云ふ。岸を下りて至る處にある古跡の一二を記せん。

七ツヵ池 巌石の間、木樹の鬱蒼たる處に全て狭く較長き溜水を見る。水色、日中に七変するを以て斯く名付ると云ふ。尤も光線の作用で変化しむるものにて別に異しむに足るべきものはなし。

弥勒田 七ツヵ池の傍にあり。方四五尺位の涼水なり。口碑によれば上代、諾・冊、田を植え玉ふ處なりと云ひ、今に種を不蒔して年々稲樹を産す。云ふ如何にや。

和泉の酒 前崖絶壁の間一小坑ありて水出づ。水色希に異なりて石に流れ懸りたる處緑色をなす。往時牧師木を降す際に於いて水桶にて流し之を呑見たるに七昼夜酔ひ居たりと云うふ。今考えるに此へんは銅山なるべし流れ出る水も銅気を含みたるものにて其毒に中りたるもの乎。

月形日形 旧河岸に添ひて下ること数町にして百丈ヶ滝と云ふ懸崖に標題の如きものあり。崩れ落ちたる岩の跡、自然に日月の形をなす。仰ひで之を望むべしと雖も傍は遅くこと能はず。

おのころ島 百丈ケ滝の下清泉の噴出する處、自然に池をなす。広さ一町余、水甚だ深からず。透明にして寒冷肌を刺すが如し。傍に樹林あり。納経の地には最良の地なりと雖も惜哉山門僻地に在りて人の足を逃ふもの少なく無風流の土人が麻苧を浸す處の島となし居るのでおのころ島は即ち池の中央にあり。宛然石を以て日本の地図を栫へたる如く、亦一奇と云ふべし島上に石碑を以て其縁地たるを表す。

鬼八ヵ礫石 おのころ島のやや上流により二間立方位の巨石にして鬼八ヵ投げたるものと云ふ石。面處々に穴痕あり鬼八ヵ爪の跡と云ふも奇怪々々。

三田井町 西臼杵郡中第一の市店にしては数三百余もあるべく市街清潔にして山間一は珍しき所なり。郡役所警察署直間税分署区裁判所高等小学校其外官衙概ね皆此處にあり。商況較活発の模様なり。

三田井の名称の起こる所を尋ねるに前に記したる弥勒田の外に不蒔田、雲雀田とて近辺に在る田又た藍染川、雲雀川・神代川(以上三川は井の名称なりと云ふ。)と云へて處にて皆当地方に有名の史跡なる由にて名称の起源之に在りと云ふ。

三田井より天の岩戸に達するの道二里あり。平よりすれば三里。難よりすれば一里半なり。健脚に任せて難路に向ひ、一大駿坂を越えて至るの途中各蹟と称する處は、高山短山、高天原、四王児ヵ峰、中部ヵ岩、天ノ加児山、猿田彦ノ祖、其他猶有る。皆古跡と称するのみにて見るに足らず。

天ノ岩戸 高千穂第一の名蹟天ノ岩戸と称する處なれ。暫し見物するもいま深山なるべしと思ひの外、格別の處にてもなく、先づ岩戸村に達す。人家點々の間を行くこと数町にして石灯籠道を挟みて行くこと数町に遥拝殿あり。深谷を見て、遥かに前岸を望むに樹木鬱蒼として書くに及ばず往古の旧跡の伝えは心自ら清々承く一拝孰れに岩戸や在ると方々眼を転ずれども其の在るを発見すること能はず。樹木の葉を落としたる時には凄く僅か知ることも得ると雖も断崖の穴から絶壁の上にありて鳥ならては至るなど能はざれば、当地居住のものと雖も如何なる様子なるかと能はずと思ふ。霊地は矢張り霊地として差し置き、余り詮索信榮こそ能けれ。(未完)


明治24年9月4日熊本新聞
「蘇陽學人『高千穂紀行(續)』

天の浮橋 岩の下流数町の處にあり深淵の中間に岩緣あり。水其上を流ること深さ一尺余。前方は滝下に水打ち込み俗に云う「ワンドウ」の大なるものなり。浮橋を「ワンドウ」との間川幅三間余にして深く測るべからず伝え云ふ。昔時は此浮橋に欄干も擬宝珠も歴然として在れども大水にて水中に流込みして此浮橋平時にありても川水の時にありても異なることなしと。此故に浮橋と称する由なれども出水のときは前方の「ワンドウ」の下を水流れ去り、河身幅広くして浮橋の上を流るるには及ばざる丈けの余裕あるより格別の差異を見ざるなるべし。
大神宮の御塩 岩戸と浮橋との間に架する橋ありて其傍の崖下に灰白色の砂土あり。大神宮の御塩と伝える。石標を掲げたり。土人持ち去りて守りとなし、又、邸内に散布して蛇害をなくすと云ふ。岩戸村地方には他に格別見るべきものなく只山たけの四面に聳へたるを見ると渓流の燦々たるを聞くのみ。此地より四方に通ずる道は険路駿坂なりと云ふ。殊に岩戸山の峠道は高く裏表に聳立して銅坑處々にあり。現に採掘し居流ものありと云ふ。

岩戸村より野尻を経て高森に達するまで岩戸村より野尻に達する道は二あり。一は岩戸村より発するもの大険なり。一は三田井に立ち戻りて皈するもの。近頃開削して較平易なり。野尻までの間、里程凡六里。上ノ村と云へる寒村を経て達す馬見原より三田井に達する道を景況異なることなく別に記すべきの旧跡等もなければ略して云はず。而して野尻津留館に出て高森に達するまでの間は節に別記たる平原のみにして記すべきのことがなし。

総じて道路高千穂地方は山又山、谷又谷、一寸隣家、行くも一谷も二谷も超さねば行くこと能はざる處なり。然れども土質は砂礫交じりにして泥濘のケ所とては全く無く、一日晴天なれば何里行くも草鞋にて宜しく併て谷々には水の湧くケ所が少なからず。総て此辺にて何里と称するは皆五十丁を以て一里とするなれば三十六丁一里の積もりにては大間違いなり。又近来道路を開削するの噂を所々にて聞く。果たして成功の暁に余らは日向道を又平易となるべしと思はる。蚕桑余程に繁盛の模様にて繭糸を併せて糸を繰る家は途中指を屈する程に至らざりて當地方には天然桑も沢山ある様子なれば今少しは盛大にありそうなものと思へり。

教育 此處に十軒、彼處に二十軒位の村落散在して一体に貧家が多く道路困難なる處より考ふれば教育の不進歩なることは明なり。西臼杵郡中八十余の小学教員中訓道の資格を有するものは只一人あるのみを以て其一班を卜知すべし。残り三田井町は高等尋常併設にして生徒全て三百余人校長は学務二等の郡書記を兼て存外盛大に極め居れり。

物価 當地に産するものは連々飽より入来るものは不揃なるは自然の道理なれど米一升にても銭五厘より八銭位酒一升(阿蘇にて十四五銭位の段)二十銭。卵子一ケ八厘。旅籠料は十三銭位より二十銭位まで。物産中、麻苧一貫目にて上等一円七十五銭。椎茸一升十五銭一斤(阿蘇にて二十銭位乃段)十銭なり。其外炭薪の如きものはロハの如し。

人情風俗 人情は温厚にして万事気配りもあるが如し。就いては活発敏急の性質は乏しからん。男女共概ね麻苧にて織たるものを着す。動きのできるものを以て締め、更めて浴を結ぶ。楼の事は少なし。故に女子の如きは存じて野肥なる風習あり。初めて彼の地に至り知らず道など尋るときは親切丁寧、教導して復たもうしなし以て其一班を知るべし。殊に感ずべきは小道枝道至る所道標を立て余も綿密に行先を示したるは旅客に取りては余程の便益なり。

今回の漫遊は日限ありて意の如くならず全て舐めたる旅行にて矢の如く又戻りタルことなれば見残したことも多からんと聞くはきこども少からざるべし。只恐る数日の中に見聞きした事柄は間違いのことあらん或は全て推了にて串実と齟齬とも居らんことを。(完)

“Takachiho Travel Report” by Soyo Gakuto posted in the Kumamoto newspaper in 1891
Introducing the historical sites of famous places that Kumamoto people stopped by when they came to Takachiho and their impressions of the trip.
At that time, Takachiho was active in cannabis cultivation, and there was a story about making clothes from hemp.
I also wrote that Takachiho has many signposts and is convenient for travelers.

【苧漕小屋】
明治24(1884)年9月3日『熊本新聞』「蘇陽學人『高千穂紀行』では、高千穂神社本殿の彫刻の中で
苧漕小屋の彫刻について、
「社殿綺麗にして種々の彫刻あり。その内に苧漕小屋の彫刻あり。小屋外より一人の男来りて婦人
に戯れんとするの図のよしなり。此彫刻なかりせば縣社に昇格あるべき筈なるものを残念の異なり
と所の人は云へりき。」
と書いている。
彼の心配は、平成16(2004)年7月6日に国の重要有形文化財(建造物)に指定されることによって、
杞憂だと証明される。
麻の作業がそれだけ、高千穂で盛んで、蘇陽學人も
「山の間較平坦なる地は殆んど開墾して畑となし、第一に栽るもの麻苧にして是れぞ
此地有名の物産にして各家の専業皆之に在り。畑地の八九分之を以て占め当時
刈り揚げの最中にて非常に繁茂し一見其名産たるを知るに足る。」
と書いている。
柄木田文明「〈史料紹介〉中条唯七郎『九州道中日記』第二巻①ー高千穂ー」(『成蹊論叢44号』2007年4月10日)
天保2(1832)年9月24日に
「河内ヨリ此上ノ村迄、川々に⛺️如斯小屋懸ケ多くあり、是ハ麻を水にて製する所也。
去ル程ニ麻多シ。他所ヨリ商人多く入候も、彼麻と代呂物替也、就中、木綿布糸・古着等を以麻に替ユると也。」
とある。


【Hemp hut】
In the sculpture of the main shrine of Takachiho Shrine in the Kumamoto Shimbun “Soyo Gakuto” Takachiho Travel Report “” on September 3, 1884.
About the sculpture of the hemp hut
“The shrine is beautiful and there are various sculptures. There is a sculpture of a hemp hut in it. A man comes from the small outdoors and a woman
The goodness of the figure to play with. The difference between what should have been promoted to Prefecture without this sculpture
The person in the place said. “
Is written.
His concern was that he was designated as a national important tangible cultural property (building) on ​​July 6, 2004.
It is proved to be a misery.
That much hemp work is flourishing in Takachiho, and Soyo scholars
“Most of the flat land between the mountains is cleared and used as a field.
It is a famous product here and is located in every house. At that time, occupying the field with 80〜90%
It is very prosperous in the middle of reaping, and at first glance it is enough to know its specialty. “
Is written.
Fumiaki Kakita ” Yuihichiro Nakajo” Kyushu Dochu Diary “Volume 2 (1) -Takachiho-” (“Seikei Ronso No. 44”, April 10, 2007)
On September 24, 1832
“From Kawachi , There are many ⛺️ shacks in the rivers up to Kaminomura, and place makes hemp with water.
As much as last time. There are many other Yori merchants, and hemp and Shiromono replacement, especially, cotton cloth thread, used clothes, etc. are replaced with hemp. “

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