※『宮崎県史 資料編 民俗2』(平成4年3月)小野重朗執筆分より。引用の際には原本をご確認下さい。
菊節句・栗節句・ムカゴ節句
旧暦九月九日は県下でひろく栗飯やムカゴ飯をたいて食べる。山や野の栗を拾ってきたり、これも野山のヤマノイモに生なるムカゴをとってきて飯に入れてこの日を祝う。だから、この日を栗節句ともムカゴ節句ともいう。九月九日を菊の節句というのは大陸から伝来した習俗だとされるが、宮崎でもこの日に菊酒を作って飲むという話を時に聞くことがある。酒に菊の花びらや葉を摘んで入れた香りのいいもの。邪気を祓うとされる。
田代神社の柿餅
東臼杵郡西郷村田代の田代神社では旧暦九月九日にひっそりとした節句祭が行われるが、その時に珍しい柿餅が供えられる。神社総代や名頭という神役が用意する。前もって神田のもち稲を刈って、籾わとり平釜で炒って焼米を作っておく。柿はモチガキというシブ柿のやや色づいたしぶいものを用いる。皮をむいて割ったものを臼に入れ横杵でつく。それに湯に漬けた焼米を加えてさらにつくるこれを飯櫃に入れて蒸すとしぶさがとれて甘くなる。これを柿餅といっておおきなワラヅトに入れて神々に供え、供えに行く途中に逢った人々にも一箸ずつ食べさせる。この田代神社に限らずこの九月九日の祭を秋祭としている神社は多い。
駄祈祷
九月九日とは無関係だが、旧暦九月上旬頃の行事を一つ記しておこう。ダキト・ダキネンとよぶ祈祷行事で、駄祈祷・駄祈念の意味だと考えられている。これは児湯郡の全域に濃く分布していて現在も行なわれている例が多い。例えば都濃町明田では旧暦九月十一日に駄祈祷を行なっている。この早朝に各戸から一人ずつ浜下りをして笹葉のツトに浜砂を入れて潮をくんだものを持って集落に二つある水神の湧水の共同井川にそれを供えて拝んでくる。駄祈祷の宿が決まって、そこに今年の祭り班の人達が集まって祭りをする。今は神職が中心だが、古くからの山伏家も加わっている。神事の後で、大きな駄祈祷の旗を井川の数だけ作る。五色ほどの色紙を長くつないで高い孟宗竹につけ、それを二つの水神に運んで立てる。この旗が三日以内に雨で降ちると雨年だという。宿で宴をひらき、夜は盆踊りもする。
この例でみれば駄祈祷は明らかに水神祭りと考えられているが、では駄祈祷の駄はどう考えられようか。児湯郡外の数少ない事例の中に南郷村水清谷があり、ここでは駄祈祷の日にはハクラクドン(伯楽殿)という獣医が家々の馬を集めて悪血を取ったり、爪を焼いて治療をし、皆で馬頭観音や山の神に参って馬の無病、無事故を祈ったという。つまり駄祈祷は名のように元は馬の無事を祈る行事だったのが、馬の飼育も少なくなり、水神祭りに移行して行ったと考えられよう。その変遷の歩みがたどれる行事である。
亥の子突き
亥の子というのは旧暦十月の亥の日の行事である。宮崎県も他の九州の各地と同様にこの日の行事が盛んである亥の子の民族でよく知られているのは地区の男の子(今は女の子も)たちが、家々を訪れて、その庭などを石やワラ棒でうち鎮めるものである。そしてその方法には石に数本の縄かかずらをつけて数人で石で突くものと、各自ワラ棒で地を叩くものの二つに分けられる。それぞれ例を挙げてみよう。
宮崎市加江田、片野田では亥の子には亥の子餅をつくが、また十四歳までの男の子供たちが集まってイノゴモチツキといって、子供組で保管している丸石に縄をつけて、家々の門口を突いて回る。その時の歌は「エートヤ、サイトヤ、亥の子の晩に、祝わぬ人は、鬼になれ、蛇になれ、角の生えた子持て」また「一の木、二の木、三の木、桜、五葉松、柳、殿様の槍の先や、スッポラポンノポンヨ」などとも歌って突いた。家の門庭であまり人の踏まぬような隅などを突いて回る。その年に男の子の生まれた家では初亥の子といって庭を賑やかに突いてもらい、その子も背負われて縄をもたせてもらって突く。子供たちには餅や祝儀の金を与える。
次はワラ棒で叩く例。東臼杵郡北川下赤では十月の初亥の子の日には子供たちは家々を回って、ワラ束にワラ縄を巻いて作った棒で庭の地面を叩く。モグラ除けだという。歌は大黒様の数え歌で「一で俵を踏み回し、二でにっこり笑って、三で杯さし合って、四で世の中良いように、五ついつもの如くなり、六つ無病息災で、七つ何事ないように、八つ屋敷を踏み広げ、九つここに蔵を建てて、十でとっくり祝うた」と餅をもらったが、餅をくれぬ家では「今日の亥の子を祝わぬ者は、鬼の子産め、蛇の子産め」と歌ってはやすものだった。
石で突くものとワラ棒で叩くものは分布がはっきりと違っている。石で突く方か宮崎市と宮崎郡を中心に南は南郷町まで北は川南町まで分布しており,ワラ棒で叩く方は南は日向市から北は北浦町,北皮町まで分布している。共に海沿い近く分布しながら、石で突くのは南に、ワラで叩くのは北に、相接してあるのかは不明だが、共に作物の収穫もほぼ終った土地を打ち鎭めるための呪術と思われる。モグラを追うだけの行事とは思えない。「鬼になれ、蛇になれ、角の生えた子を産め」という歌も、収穫を祝わぬ者への呪詞とも思われる。
縁結び伝承
亥の日の亥の子神が若い男女の縁結びをするという伝承が点々と聞かれる。例えば新富町三納代では旧暦十月の第一の亥の日には早朝に餅をついて家々で亥の子神をまつる。亥の子の神様はこの日家家々でついて供えた餅をもって出雲に旅立たれるという。その旅に出る前に神様は家々の未婚の男女の結婚の組合せを決めて旅立って行かれるので、なるべく早く餅をついて供えないといい組合せを決めてもらえないという。
この例のように亥の日神の縁結びの話と共に、亥の日の餅は二つずつ重ねて家の男女の子供たちに与えると、その餅は必ずその子が食べねばならぬと言われ、その名を女夫餅とよぶ例もある。このような亥の日の神が家々の若者の縁結びをするという伝承は県南、県中に広く分布し、県北にほとんど聞かれないのが特徴である。
大黒様の帰る日
それに対して県北ではまた別の伝承が聞かれる。正月十一日の頃で挙げた日向市中村の例をもう一度とりあげよう。ここでは旧暦十月の初亥の子の日には大黒様が田から帰ってこられる日だといって亥の子餅をついて供える。大きい餅を一重ね作り、その重ねた餅のまわりに亥の子花と言われる菊の花をはさんで美しく飾る。「大黒様がハリコンダデ、作ノ出来ガヨカッタバイ」と大黒様に感謝する。大黒様が田に出る日は正月十一日でこの日は田で田打ちをして餅を田の中に埋める。このように家の大黒が正月十一日に出て農地に行き、亥の日に家に帰るという伝承は県北の焼畑、畑作地帯でも同様に聞かれ、亥の日ら大黒は山から帰ってくるという。
大黒が家に帰ってくるのに対して、亥の日には蝿が家から帰って行く日だと言われる。亥の日の亥の子餅をなめる蝿は帰って行ってしまうという。蝿は田植えの時期に家の留守番をしたので、その代償として亥の日の餅をなめてから帰って行くのだという。蝿の国から訪れるのは来年の五月の田植えの時期である。この伝承は宮崎県か一帯に聞かれ、さらに九州に広く聞かれる。
亥の子についてはもう一つ、その年の十月に亥の日が三回あれば火災が起り易いので注意せねばならぬとかね亥の子餅をオカマ様に供えて出来が起らぬよう願うという伝承がある。
お日待ち
亥の日の同じ旧暦十月の行事で、旧暦十月十四日の晩から人々がお日待ちの宿に集まって夜を過ごして十五日の朝の日を拝んで終る行事である。児湯郡の都農町岩山では順番でお日待の宿が決まり、宿に野菜などを集めて夜に飲食し、餅もついて供える。十五日の太陽がでると皆が拝んで豊作や一家安全を祈る。喪中の人は参加しない。五ヶ瀬町の諸集落のお日待には宿に棚を作って作物や野菜を供えて収穫祭の色合が濃い。
ホゼ
えびの市、小林市、都城市を含めた諸県地方から西都市までの地域で行なわれる家単位、集落単位の収穫祭である。神社の祭りから独立して、家々の祭りとなった所が多い。ホゼはその性格から豊祭の意の解されることが多いがね歴史的には放生会に発した語で、放生会の旧暦八月十五日の祭りが鹿児島では旧暦九月の祭りとなっており、宮崎の前記の地方では鹿児島では旧暦九月の祭りとなっており、宮崎の前記の地方では十一月の行事となっている。ホゼは地区ごとに日が決っており、家ごとに二、三日前から甘酒を作り、イモゴンニャクを作る。この二つはホゼに欠かせない食物となっている。他集落の親類や知人が次々訪れて賑わう。酒に酔って這って帰るのでホウゼだという説があるほどだが、近年は下火になった。