鬼八の話(山口保明)

鬼八

鬼八の原話は文治五年(一一八九)三月奥書の『十社大明神記』(高千穂神社文書)に「きはちふし」の名で登場し、建武五年(一三三八)三月述の『高千穂十社御縁起』(同神社文書)には「きはちほうし三千王」と書かれ、ともに二神山(二上山) の乳が窟に根拠をおいた長生のデーモン(鬼神)として語られている。右大臣富高氏・左大臣田部氏を率いた正市伊様(十社大明神)は鬼八を攻め、激闘の末に遂に退治した。
 鬼八の遺体は押えにした石を動かして再生するので、体を三つに切り分けて埋めなおしたと『十社大明神記』には記している。後の文献、たとえば『日州襲高千穂御神跡名号古庄略縁起』では、「三毛入野命故有テ襲高千穂ニ、鬼八星卜云者退治シ玉フ」とあるように、以降類書は三毛入野命が鬼八を退治したことに統括される。『高千穂十社御縁起』では、鬼八を鎮定していく過程が一方的な武力ではなく、法力の説伏という形で示されている。
 鬼八の話は高千穂地方にだけ伝えられているのではなく、阿蘇地方の開拓祖神ともされている。阿蘇神社に祀られている健磐龍命の矢拾い役が鬼八(金八とも)で、主君の命に無礼のことがあって制裁される。樋口種賓■著『高千穂庄神跡明細記』(文久二年、神仏分離調書)に「(鬼八の)半身を埋め給ふ所、今肥後国内にあり。此半身を埋めたる所にて、此祭あるを霜の祭といふ。」ともある。また、豊後の下日向村に、喜入法師の宮があると紹介されている(西川功編『高千穂の猪掛け祭りについて』)。
 古くから多様に語り継がれている鬼八は、祟り神の性格をもって祀られている。それは霜を自在に操る神格であって、原始の観念に支えられた山間の人々の暮らしを左右する邪神であった。人間の生活の妨げをなす、悪魔が山に籠もっている。気象さえも手中におさめている、悪霊が山に棲む。しかし霜さえ五気に順じ通常の通りであれば、招福の霊神に転生する性格をもつのである。鬼八はすくなくとも、山の気象を司る山神的性格をもつと同時に、反面荒振る神であっても、一方では山地農業を守覆する神格ともなったのである。

霜宮信仰

山間地農業にとって早霜害・晩霜害は、決定的被害(凍害)を与える。たとえば、早霜害だと焼畑のソバ、棚田(畑)の水陸稲、晩霜害だと桑・茶・疏菜など決定的である。高千穂町三田井では、初霜は十月下旬、五ヶ瀬町三ケ所では十月初旬、ともに終霜期は四月旬である。所在する集落の高低によって温度差も著しく、最低気温では三田井がマイナス九・二度、五ケ所ではマイナス二一度を記録したこともあるし、周囲に山をめぐらす同地方では、昼夜の気温が七~一〇度の較差を示す。霜宮信仰は、こういう気象条件の中に生まれた一つの山鎮めの儀礼であろう。
 昭和四十九年県立高千穂高等学校プール建設工事中に、現場から発掘された碑に「霜宮鬼八是也 享保十九年九月吉日」の刻字があり、同じく三田井(徳玄寺上)に鬼八塚と伝える板碑、文久元年(一八六一)九月の「荒振神鬼八塚」(三田井神殿)があって、霜を司る農神として祀られている。
 一方、嫗嶽大明神(祖母山)を上宮とする遥拝社健男霜凝日子神社(式内小社・大分県竹田市神原)があり、除霜の神として崇められている。また、阿蘇神社の摂社霜宮神社(熊本県阿蘇町役犬原)の「火焚の神事」は、八月十九日の乙女入れにはじまり、十月十六日の乙女揚げの期間中、少女が火焚殿にあって火を焚きつづけ、御神体をあたため、霜の害を防ごうと祈願する祭りである。
 霜宮信仰は、阿蘇地方から宮崎県域の西臼杵郡をすっぽりおさめ、大分県竹田市から大野郡を経て、東にのびる地帯に広がる特異な山岳信仰の一つであろう。

シシカケまつり

 シシカケまつりは、高千穂神社(高千穂町三田井鎮座)の宮司によってすすめられる。高千穂地方とは、古来日向と肥後に跨がる広大な山岳地帯の呼称であって、古代国都の制度が確立された時に、肥後に属する部分が阿蘇郡に編入された。旧藩時代は、近隣一八か村を総称して高千穂郷と称している。それら旧郷高千穂八十八社の総社が十社大明神(高千穂神社)である。しかも同社は別当神宮寺をもつ神仏混淆の霊場として、強大な信仰的基盤を固めていた。ちなみに、神宮寺の本尊は医王善逝であり、薬師悔過の浄行もあったであろう。
 鬼八を討った三毛入野命(土地では十社さんと呼ばれる)を祭神として祀る高千穂神社こそ、地域の安泰を堅持するために山鎮め・霜鎮めを執行するにふさわしい統括社であった。伝承によれば、早霜を降らせて民を苦しめる鬼八の霊を鎮めるために、土地の生娘を供犠とする習わしがあったという。それを猪に代用して供えることにしたのが、甲斐宗摂(宗雪とも記す)という武将であったと伝える。宗摂は三田井家の臣で、現在の日之影町にあった中崎城主で文禄四年(一五九五)戦陣に果てている。毎年高城山(標高九〇一㍍)の巻狩りを行ない、三十二名の村人がつき添って、旧暦十二月三日に鬼八塚に供え、猪番という供犠役が祭式を手伝ったという。祭りが終わるとソジン(左前足)を献納方が持ち帰り、残りは宮司や村役に分配された。このオニエ(鬼餌)の狩りは、阿蘇の神主の狩りにも比べられるほどの大がかりなものであったという。別に「鹿子祭り」とも伝えているところから、鹿を贄に供したこともあったのであろう。
 かつてこのシシカケ(猪掛け)まつりには、米三石九斗六升六合六勺六才を用意し、荒立宮・菊ノ宮(ともに高千穂町三田井)に六斗六合を供え、残りの三石三斗六升六勺六才をシシカケまつりと狩り行事に用いたという。実に大がかりな祭りであったことが知られ、鬼入塚の前では木組みの三脚を立てて猪をのせ、下から火を焚いて毛焼きをする供犠の儀礼もあったと伝えている。
 シシカケまつりも時代とともにかわってきたようで、まずカマド祓い(釜祓い)をして、新穀を一番釜で七升、二番釜で六升炊く。お供えの方式は、高千穂神社本殿内陣に一○膳を、左右殿に四繕宛計一八膳を十社大明神と八十八社に献じる。ほかに、五行神に木地椀にて五つ供える。それに、神幸用具の鉾並びに神面をかけた水の玉・火の玉に供える。さらに、境内摂社をはじめ御塩井の桜川妙見社にお供えとカケグリ、杉ノ上・神代川・夜泣石などすべてにカケグリをかける習わしであった。
 現在は高城山の巻狩りこそないが、高千穂神社氏子猟師による猪の丸ごとの献納があって、祭祀は厳粛に執り行なわれる。午前十時ごろから宮司による祓いの式があり、古例にのっとり禰宜と神子とが木地椀にゴク(御供)を盛りつけ三方にのせ、宮司が取次いで、順次献饌する。つづいて氏子・参拝の人々が本殿後座に着き、神前の献供台に猪が運はれる。祝詞奏上、参拝者の玉串奉典とつづくが、この間社般の周囲を二人の槍持ちが祭儀を守護しつつ巡回する。神前においては「ササフリかぐら」を奉納する。
 こうして祭儀が終わると、一同神殿の鬼八塚に参じて、塚前の注達を新たに掛けわたし、幣吊を献じ、猪肉とゴクを供え神事を営む。鬼八の霊を鎮め、五穀豊穣を祈願する。ひきつづき、神社造営のおりの木片を祀ったというコッパ杜の社に至り、献幣・献饌して神事を行なう。古釆よりゆかりの場所には、祝子によってカケグリをかける。この間社殿においては「浅ケ部神楽」(高千穂神楽)の奉納をつづける。舞い納めると社務所に座を移して直会、献饌のゴクが「十社さんの護符」として配られる。
 このように「シシカケまつり」は霜害を防ぐことを中軸にして、水の神・火の神・狩猟神などを合わせ祀る、とりわけ壮大な山鎮めの儀礼であって、道教・陰陽道などの投影をみることのできる重層的な祭儀である。『高千穂庄神明帳』に「大明神之御社之御事。四方下ル、立テ四百間余リ、横ハ五六百間可有之。此宮山之後社、胎金二界七仏生所之岩屋也。是社秘密之宝所と申也。谷ハ八つ峯ハ九つ戸ハ一ツ、鬼之すむといふあららぎのさとゝ申深山是也。」と記され、その位置と思想をさぐることができるが、おそらくは高千穂修験との関わりが深く、別当寺社僧も加わった盛大な祭りであったのであろう。

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