春の行事

※『宮崎県史 資料編 民俗2』(平成4年3月)小野重朗執筆分より。引用の際には原本をご確認下さい。

太郎朔日・並びに朔日

旧暦二月一日の名称が宮崎県には大別して二つある。タロヅイタチとナラビノタツタチである。太郎朔日の方は西臼杵郡の三町から東臼杵郡の椎葉村、諸塚などの山地に分布しており、離れて都城市とその周辺にも聞かれる。それに対して並びの朔日の方は西都市や宮崎市を中心にして平地の佐土原町、木城町、北川町へと分布してい。
 二月一日のことを何故太郎朔日というかは明らかでないが、正月が済んで最初の朔日だからだろうという人もいる。この名称は熊本県の球磨山地に引き続いており、球磨では山ン太郎という河童が山から川に下って川ン太郎なるのがこの日だから太郎朔日と言うのだと言っている。宮崎ではあまり聞かないが興味深い。椎葉村では太郎朔日はイモバカリという。餅や御馳走の多かった元旦と二月一日を比べているのである。高千穂町では太郎朔日には畑や山の仕事を休んでマダラ団子(ブチ団子ともいう)という模様入りの団子を作って食べるものだった。並びの朔日の方は二月一日が正月一日と並ぶという意味と一般に理解されている。だからこの日にも正月のように餅をついて食べるという。

年取り直し

正月に取った年がいい年でないので二月一日にもう一度、年を取り直そうというのが年取り直しである。例えば東臼杵郡北浦町古沢では旧暦一月三十日から二月一日にかけてを年取り直しという。旧年中に病気をしてこの正月になって治った人とか、遠い旅から正月半ばにして帰ってきた人とか、今年の運勢がたいへん悪い人などは、一月三十日に餅をついてもう一度年をとり、二月一日に改めて正月を迎える。この習慣も宮崎市から県北の平地の地方に点々と分布している。すなわち、旧二月一日を並びの朔日と称する地域と重なっている。二月一日を元旦と並ぶものと考えているので、この日に年を取り直すのであろう。 これによく似ているのは旧二月一日に厄祓いをする習慣である。先の北浦町大江では旧二月一日に、男四十二歳、女三十三歳、さらに男六十一歳の人はこの日に仁者に参って厄祓いの祈祷つをしてもらい、餅をついて町の十字路の所で、自分の年の数の餅や銭をまいて人に拾ってもらう。その後で厄祓いの宴を親類知人を招いて行なう。これも厄年を1ヵ月で終わらせようとするので、年取り直しと同じ原理なのである。

二日灸

旧暦二月二日に灸をすえる習慣は県北一帯に知られている。この日を養生日とかヤイト初めの日といって灸をすえると一年中健康であるという。老人などが友人同志集まったり、近隣の女たちが集まって互いにお灸をすえ合い、ぜんざいや少々の料理を作って食べて過ごす日となっていた。二日灸というのは全国的に聞かれる名称でもある。

節変り

節分は立春の前日、つまり冬の節が終って春の節に変るときであるから、節変りとよばれる。新暦で二月三日にあたる。正月で言えば元旦の前夜の年の晩に相当する。だからこの節変りには、まだ節季の変らぬ打ちにみやげ物を持って親元にあいさつに行く。昔、ヒオコシ(火吹き竹)を使っていた頃は古いヒオコシにワラの栓をして道の辻に捨てた。これは貧乏神をこの中に閉じ込めて捨て去るのだい言い、立春の日からは新しいヒオコシを用いた。北諸県郡地方に特によく聞かれる伝承である。宮崎市とその周辺ではこの夜には寝床の場所を変えて寝なければいけないという。この夜に鬼がきて人の眠りを襲うからだという。鬼がくるのを防ぐために戸口の所に柊の枝にイワシを貫いたものを差すという例も清武町で調べられている。柊の葉の刺とイワシの臭さで鬼を追うのである。

豆まき

節分の夜の豆まきも古くから県下で点々と行なわれてきた。これも、この夜に家に入ってくる鬼を追い祓うための行事である。そしてその夜にはまいた豆を用いて、一年の天気を占った。例えば児湯郡川南町では豆まきをした後で、豆を十二粒、囲炉裏の火からは離して灰の上に並べる。一月から十二月までの付を代表する豆である。それらがやがて焼けてくる。その焼けた色が白ければその月は晴天、黒く焦げれば雨天。半分焦げると月の前半が雨天などとして月々の天気を占うのである。囲炉裏のあった昭和十年頃までは行なう家が見られる。 節分はまた厄年の人が厄祓いをする日となっている。先の二月一日の厄祓いと厄を祓う方法や厄年の数え方も、道の辻にでて銭をまくことなども同じである。男女共に六十一歳の厄祓いに娘が赤い着物を贈ることになっている。

初午

旧暦二月になって最初の午の日を初午という。初午はお稲荷様の祭日になっており、農家の人々は農作神、馬の神として稲荷神社に参る。例えば西郷村田代では上円野にある楠原稲荷に参り、五ヶ瀬桑之内では熊本県高森の穴迫稲荷に参り、馬の札をもらって来て馬屋に張る。稲荷様への供え物は赤飯の三角形の握り飯、油あげ、鶏卵などとされており、稲荷のない所では家の氏神や床の間にそれを供えて祭る。正月からこの初午までの間に雷雨があれば、その年は豊作になるといういい伝えも聞かれる。

雛節句

三月三日の節句を女の節句といって、雛を飾って祝う習慣は、宮崎市から延岡市に続く海沿いの地方を中心にひろがっている。この地方には旧暦二月から三月初めに人形市の立つ町が多くあって、三月節句の佐土原人形をいろいろ売っており、糸まりや着物の布なども売っていた。初めての三月節句を迎える女の子のいる家では初ソナジョとかヒナジョ祝をするので、その祝いに贈る人形などはこの人形市で買い求めるものだった。
 ヒナジョ祝いには人形の雛壇を飾るだけではなくそのまわりに山というものを作った。その習慣は宮崎市、郡、児湯郡、特に東諸県郡は盛んだった。現在も東諸県郡の綾町の北俣、南俣では雛ジョ祝いの山作りをみることができる。山作りの名人がいて頼まれて山を作る。数日前から遠い官山に行って藤、椿、松、コケなどを採ってきて、雛壇の回りに部屋一杯、天井に届くほどに木や花を飾り、岩を配したり、白砂で川の流れを作ったりする。杉壇と竹の矢来に囲まれた山である。山の周辺には親類、縁者から贈られた晴着や布地を掛けて飾る。元は節句の日には親類から祝いの盆が届いて、それには御馳走のほかに、桃の花や米の粉で作った鶴亀などを飾ってあり、その前で祝いの宴がもたれた。
 この山は長く置くものでないといい、四日には山クヤシ(山崩し)をした。地区の主婦たちが道化た変装にミノ、笠をつけ鍬をもってやって来て、杉壇を少々はずしたり、人形を一つ下して山を崩す仕草をし、歌ったり踊ったりして、また祝宴となった。
 雛の山を作るのは、三月節句に山や海に出て遊んだ名残でもあろうか。南部の海辺の地方、日南市の油津や串間市の 保野などではこの日、子供たちに限らず人々は弁当をもって海辺にでて磯遊びをした。三月節句は元来は三月の上巳(最初の巳の日、この日は除日といって不浄を祓う日にあたる)に行なわれた行事で、この磯遊びも潮を浴びる祓の行事であったのであろう。

桃酒

椎葉村から五ヶ瀬町、霧島町など北部山地では雛をかざる習慣はなかったが、三月節句はきっちりと旧暦で行なわれ、よもぎ餅をつき、菱餅を作ったり、桃酒を作る。菱餅の上に桃の小枝をさしたのを神仏に供えたり、桃の花枝をさした器に寒作りの酒を注ぎいれて桃酒を作る。これは小さい子供たちにも少しずつ飲ませて身を浄めるという。
 桃酒にはよく語られる説話がある。昔ある娘の所に夜な夜な男が通ってくる。その男の裾に麻糸をつけた針をさしておいて、娘の親がその糸をたどって行って、山中の洞穴で蛇の父子の話をきく。子は「人間に蛇の子を生ませることにした」というと父蛇は「三月節句の桃酒を飲むと子が流れるから安心はできない」という。娘の親が娘に桃酒を飲ませると、ショケ(竹笊)一杯の蛇の卵が生まれでたという。この説話は桃酒に不浄を祓う力があることを教えている。五月節句の菖蒲酒にも同じ説話が語られている。

馬の正月

諸県地方を中心に三月三日を馬ノ年とりとも馬の正月もいうは馬の産れるのがこの頃からだし、馬の仕事が忙しくなるからだとも言う。馬頭観音に参拝したり、節句の草餅を馬に食べさせたりする。レンゲ田に連れていって自由に食べさせたりする。

春彼岸・秋彼岸

春分(新暦三月二十一日頃)、秋分(新暦九月二十三日頃)を中心として前後三日ずつが春彼岸・秋彼岸にあたる。そのうち、入りの日、中日、サメノ日(終りの日)を特に重視する。彼岸にはヨモギ団子などを作って神仏に供え、墓参りをする日となっている。「親ノ日知ラニャ、彼岸ヲ知レ」(親の命日をつい忘れることはあっても、彼岸の墓参りを忘れるなの意。西米良村小川)と言われるように重要な先祖供養の日であり、寺々でも彼岸の法要が行なわれる。諸塚町荒谷では彼岸の間、七日念仏といって入りからサメまで七日間、村の人たちが家々を回って念仏を唱えて回った。また大師堂に交代で毎日茶を供えるために、茶当帳というのを作って順番に努める。これは現在も行なっている。
 彼岸にはこのような仏教的な行事だけでなく、春彼岸には農耕始めの行事、秋彼岸には農耕を終える行事をみることができる。例えば北川町多良田では春彼岸には家々の大黒様が田仕事に出て行かれると言って、中日には自家の田に行きレンゲの育っているところに四本の竹を立て御幣を立てて、彼岸のヨモギ団子やチマキを重箱に入れて供えて拝む。
 彼岸の農耕儀礼では、はっきりした圏を作ってみられるのは彼岸の田の神講である。諸県地方一帯には田のほとりなどに石像の田の神が祀られていることはよく知られているが、この田の神の祭りを神講と言い、その期日には春秋の彼岸に行なうものと、田植えの前後に行なうものとに大別できる。後者はえびの市などにみられるが、彼岸に田の神講を行なうのは小林市から都城市にかけての北諸県郡、西諸県郡の町村に集まって分布している。
 例えば、小林市向江馬場では田の神講は秋九月の彼岸サメノ日(終りの日)に宿をきめて行なう。ここの田の神様は古い神像型の座像のもので、宿の者がこの石像の田の神にベンガラなどで彩色をし、赤飯を供えてまつり、宿に各戸の戸主たちが集まって講の飲みかたをする。近ごろは農業の先進地を見て回ったりすることが多い。また西諸県郡野尻町の田の神は山上にあり、木の祠に入った辰冠神像型の大きいもの。春と秋と両彼岸の内の適当な日に田の神講をし、田の神を美しく彩色し、餅などを供える。春の彼岸の田の神講は田の神を山から迎えるのでタネモライだといい、秋の彼岸の田の神講は山に送り帰すのでタネモドシだという。講宿に戸主たちが集まって宴をひらく。

社日と社日講

春分・秋分の前後、どちらでも最も近い戌の日のことを社日といっている。社とは中国で土地の守護神のことだといい、社日はその土地神を祀る日とされている。社日についての伝承は隣県の鹿児島では全く聞かれないのに対し、宮崎県では社日講が盛んに行なわれる地方があり、その他に社日伝承が幾つか聞かれる。
 社日講は地域の十数戸の農家が春と秋の社日に講宿をきめて社日の神を拝んで宴をするもので、その分布はきっちりとした圏を作り、その圏内では密な分布をみせている。宮崎市、宮崎郡、東諸県郡、西都市、児湯郡の範囲である。例えば高岡町高浜、楠見では春と秋の社日には社日講をする。楠見上の講組は十戸ほど。春は社日様が天からもの種をもって下ってこられ、秋はできた稲などの種をもって天に帰って行かれるという。社日講には宿の床に掛け絵をかけるが、それには鳥帽子、直垂をつけた社日様の像の前に三宝にのせた稲穂を供えてある絵が描かれている。講番の宿に前番と次番の主婦が集まって料理を用意し、家々から戸主夫妻、子供まで集まって宴をする。掛け絵の前に灯明をとぼし、一丁のままの豆腐など供える。農業の話などするまじめな講である。
 また宮崎市村角では四つある郷中ごとに春社日に講を行なっている。宿をきめて飲み食いをする。掛け絵はない。村角では春の社日に氏神の高屋神社の境内で社日神楽を奉納する。境内に高く大きなシメを立て祭壇をゆった中で行なう。神楽は十数人の地区の社人によって舞われ、十数番だが、特に社日神楽に特有の番組があるのではなく、農作と関係があるのはこの地方でよく舞われる「杵舞い」で箕をもった女形と杵をもつ二人の男とが、性的な動作を交えたながら、餅をついてまく。厄年の男子の厄祓いの行事もあって昼の内に神楽は終る。社日講はほとんどこれらの事例と同様であり、社日神楽のある例も幾つもある。
 この社日講の圏外にも社日の伝承は広くあり、例えば椎葉村の不土野あたりでは春の社日は籾を池に浸ける日、里イモを畑に植えつける日となっている。また特殊な行事だが諸塚村家代では秋の屋代日には数年七歳の子は親につれられて茅を刈りに行き、自分の手で一束を刈りとって束ねて持ち帰り、家の神棚に供える習俗があった。また一帯に春社日には雨が降ると田が干割れしないし、秋社日に雨が降ると稲が乾きにくいと広く言われている。

大師講と麦ドキ

彼岸と直接関係はないが旧暦三月二十一日の行事なのでここに記しておこう。宮崎県下には広くお大師様の石像が村の辻や家の庭などに祀られている。この石像を祭るのがお大師講で、期日は月々の二十一日とされていて、殊に旧暦三月二十一日に行なう例が多い。大師像は集落の中でも何か所かあることが多く、それぞれ講組があって宿をきめて講をする。大師堂に家にある大師像も運んで行なうこともある。お大師講には婦人たちによる接待が盛んで、赤飯のお握りを作り、煮しめを作って、お大師様の前を通る通行人に接待をしてお大師様を拝ませる。有名な北浦町宮野浦の八十八か所をはじめ各地にあるお大師像を巡拝する行事もこの日である。
 麦ドキというのは伸びてきた麦の生長を祈る行事で、これをお大師講の三月二十一日にする例が多く、その由来について一つの説話が語られている。西米良村村所では旧暦三月二十一日を麦ドキといって、餅をついて椿の枝に幾つかの餅をさしたものを麦畑にさして豊作を祈る。この麦ドキについて次のように語られている。昔、中国から日本に麦をもたらしたのは弘法大師で、麦種を隠して持ち帰るところを犬に吠えられたので椿餅を立てて犬がそれを食べている内に麦種を持ち帰ったという。それでお大師講の日に椿餅を立て麦ドキをするのだという。弘法大師の麦種盗み説話はいろいろ変異があって全国的に語られているが、麦ドキといった儀礼と結びついているのは宮崎のこれらの例だけかと思われる。

四月のトキ

麦ドキでみたようなトキという行事が宮崎県を通じて多く伝承され、また現在行なわれている。トキは時とか斎などと関係ある言葉で、いろいろ災厄のおきやすい重大な日、時に仕事を休んで慎み、念じて過ごすことをいう。年中行事に幾つでもでてくるが、ここには旧暦四月初めのトキを記す。

風ドキ・風穴ふたぎ

風ドキには二百十日、二百二十日のものが分布が広いが、この風ドキ旧暦四月四日と同じく旧暦七月四日のもので、椎葉村、五ヶ瀬町、高千穂などの山地で行なわれている。例えば椎葉村不土野、日添では旧暦四月四日と七月四日の二日、家々では風の神を祀るといって、紙に「奉納風の御紙様」と墨書したものを竹笹につける。庭尻のところに立てて拝み、半日仕事を休んで農作が始まるについて風の害のないことを祈る。またこの風ドキを高千穂町、五ヶ瀬などで風穴ふたぎと言うのは、大きな二十センチを越えるような餅やね時には小麦粉の団子を作って家々で神棚に供える。これは風の吹き出る穴をこの餅や団子で塞いで風を吹かなくするからである。

四月八日のトキ

このトキは先の風ドキが県北山地であったのに対してこれら北諸県郡から都城市さらに日南市の海辺まで分布したトキで、現在ほとんど見られなくなっている。例えば高城町石山、中方限では旧暦四月八日のお釈迦さまの縁日の日に、トキをして仕事を休んだ。団子を作り、つれをワラツトに入れて横に吊り、屋敷内で一番高い木に下げる。下げた縄には竹を割って作った箸を家の家族数より一人前多く横に貫いて掛ける。これはトツボシサア(時法師様)ともミサキドンともいう烏に供えるのだという。これをしてから田の苗代の準備にかかるものだった。
 このように四月八日が期日である例が多かった中で海に近い日南市から一部、都城市にかけては旧暦四月十五日になっている。例えば日南市殿所では旧暦四月十五日にトキをする。米の粉の団子を作り、ツトに入れ木戸口に下げる。家族数より一人分多い箸を横にさして吊る。トツボシサアにあげるという。農耕の季節を前にして時法師と呼ばれる烏神を祀ったということなる。

花祭り

旧暦四月八日は仏生日(お釈迦様の誕生日)と言はれ県下の寺々では花祭りとかお釈迦祭りといって小さな花御堂の中の小釈尊像に甘茶を注ぐ行事がある。これに対して椎葉村の小崎あたりで、この日をシャカオコシというのはお釈迦様は二月十五日から四月八日まで人間の身代りに寝て、この日に起こしたのでこう呼ぶのだという。花祭りは甘茶貰レというように家々の子供だけに限らず大人も花祭りに行って甘茶を瓶にもらって帰る。もらって来た甘茶には色々の効能がある。これを子供たちが飲むと水泳してもヒョースボドン(河童)にとられないといい、この時から水泳してもよいという。これを飲むと虫にさされぬとか、足に塗るとマムシ除けになり、家の周囲にまくと魔除けになるという。甘茶で墨をすって手習いすると字が上手になるともいう。寺では今は甘茶の葉を煎薬として買うところが多いが、甘茶の木を植えておくものだった。甘茶の接待だけでなく、寺の行事の盛んなえびの市などの寺では地区の人々集まって盛んな踊りなどをするのをオタンジョウと呼んでいる。

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