小正月

モチドシ

正月十四日、十五日は一日にはじまる大正月に対して普通に小正月というが、宮崎では小年、若年という呼び方が行なわれ、モッドシ、モチドシも広く聞かれる。これは望年で旧暦正月であった頃の満月の正月の意味である。単純に十五日正月ともいい、また女の正月ともいうのは大正月で忙しい目にあった主婦がこの日は里に帰ってのんびりする習慣もあるからである。大正月に対して、この小正月は稲作に重点のおかれた正月であると言われ、飾り物も行事も多彩なものとなっている。
 現在は県下一般には大正月と同様に新暦の十四日、十五日を小正月としているが、西臼杵郡一帯から諸塚村、西郷村にかけての地方では、大正月は新暦で行なうが、小正月は旧暦一月の始めや十四日、十五日に行なう例がほとんどで、大正月と小正月が連続せず、切り離されたものとなっている。

小正月の飾りもの

小正月の十四日には新しく餅をついて、それを木の枝に刺したものを家の内外に飾ることが現在も広く行なわれている。餅を刺す木の種類とその名は県下でほぼ二分されている。民俗地図に示すように宮崎市を堺にして、南側では名称はメノモチ(繭の餅)でエノキの枝に餅を刺して飾る。それに対して北側では名称は柳餅とか花餅、メーダグ(繭団子)などと呼ばれ、餅を刺すのは川柳の枝である。このように餅を刺すのはエノキ、または川柳でともに落葉樹の葉のない枝が用いられるが、柳餅の地域の山地、例えば西臼杵郡などでは柳の木とともにいろいろの樹々の枝が用いられる。例えば高千穂町籾崎では川柳のほかにマユミ・ミズシ(和名ミズキ)などの落葉樹と、カシ・オザカキ(和名サカキ)、メザカキ(和名ヒサカキ)などの常緑樹の葉つきの大枝も用いられて、照葉樹林の山地文化を思わせる。
 これらのメノモチ、柳餅を飾る場所は家内では先祖棚、仏壇、大黒棚、火の神、大竃などの神仏、それに床の間、台所、納屋、馬屋、便所など家外では軒下、氏神、荒神、墓など、集落の康申様、大師様などに大小いろいろのものを飾る。中でも最も重視されるのは納屋の籾種の叺の上と台所の土間の大竃に飾るものである。籾種の叺の上には大きな枝に丸餅を多くつけたものを稲穂の形に立てる。大竃の上には竹を割った先に長い白い米餅、黄色い粟餅の穂、粟の穂の垂れた形にする。これで理解されるようにメノモチ、柳餅は穀物の実った様を象徴しようとしているのが古くは繭の豊産を形どったものであったことも明らかである。
 宮崎で現在も見ることのできる小正月の飾りもので最も見事なものは椎葉村大河内の小崎地区の諸集落で行なわれているものであろう。ここではデイの間のウチネー(台所)との間にある大黒柱に大きな竹筒を立てて、その上段には柳の枝に穂状に垂らした細長く切った赤青白の色餅をつけたものを広げて刺す。中段にはヒエ、小豆、大豆のよく実った実、穂、葉茎、根つきの一束ずつを結びつける。下段には大根、甘藷、里芋を紐で結んだものを垂らし、後で記す粟穂・ヒエ穂の作り物も垂らす。これには山地焼畑農村の作祝イという名がついているが、その名に相応しいものである。
 これらのメノモチ、柳餅は一般に正月二十日に下して餅の汁にして食べたり、二十日の歯固めに焼いて食べたりする。集落の子供たちが、メカギ(メノモチを取る)、とかメジョーチギリといって正月十五日に家々を訪れてこの餅をもいでもらって行く例(例えば三股町山王原、椎葉村古枝尾、東郷町坪谷など)が点々とある。メノモチがポトポトと落ちるとその年は雨年だといい、またエノキや柳の木を残しておいて雷の日に燃すと落雷しないという。
 もう一つ、メノモチや柳餅とは別に、粟穂・稗穂という作り物がある。東臼杵郡、西臼杵郡の山地にみられるもので、コノミヤノキ(和風フシノキ)の茎で太さ五センチ、長さ二十センチほどのもの二本を作り、一方は皮を削って真白い粟の穂、一方は皮を点々と削った稗の穂にし、それを竹を二又にしたものに刺す。これを柳餅を飾るところに一本ずつ添えるのである。焼畑地帯に広く作られている。これに少々似ているが、都城市の鹿児島県よりの地域には米の穂・粟の穂といって割り竹の長いのを茎にし白餅と粟餅で穂の形を作って差したものを神仏や表の間の回りに掛ける例もある。

小正月の食べ物

小正月の十四日、十五日には特別な食物を食べ、それを巡っていろいろの習俗がみられる。十四日の食べ物をホダレとかホダレヒキ(穂垂れ引き)という地方は西都市から諸県地方にかけてみられる。例えばえびの市大明司では正月十三日か十四日には大根や菜っ葉にあまり包丁を入れず長いまま、鰯も一匹のままで煮つけて、一家そろって夕食を食べる。この時の箸は柳の木の皮をむいて削りかけにしたものを用いて食べる。ホダレというのは葉っぱなどの長いのを垂らして食べるのが稲などの穂に似ているというのである。この時の食事では汁物や茶などをかけて食べないのは稲田が水に流されるからという。この時の家の主の食器は洗わないでおくのも同じ理由だという。このホダレヒキの食事にはデカン、メロがいた頃にはこれを床の間の前に座らせて食べさせたといい、小林市の孝の子ではデカンに酒をすすめて酔いつぶれて倒れると、その年の稲は倒れるほどよく実るといって喜んだという。
 正月十五日の朝には十五日粥といって小豆や餅の入った粥を炊いて、これも柳の削りかけの箸を用いて食べる。特に田の神に供えるといって床の間や大黒に供える十五日粥の箸は大きいものを添えるが、これを田の神箸といって保存しておいて、苗代に籾種まきをする時に種まき団子とともに水口の畦に立てておく。十五日粥を炊く地域はホダレヒキの地域と重なり、宮崎市周辺から宮崎郡、さらに県南に及んでいる。この十五日粥を炊く時に管試シ、粥試シを行なったことが綾町、野尻町、高崎町など諸県地方に広く聞かれる。十センチほどの竹管をけずり、稲の品種名を記入したものを竹管も粥の中に入れて炊き、これを割って米粒の多く入っている管の品種は豊作になると占なうのである。このように小正月の食物は稲作と結びつけて考えられるのが特徴である。

ハラメウチ
集落の男の子供組(数え年七歳から十四歳までの男の子の集まり)の者が柳の木やエノキなどの皮をむき、削りかけにした一メートルほどの棒、その形は男性箸に似ているのを持って、昨年中に花嫁をもらった家を訪れて、「ハラメ、ハラメ」と囃しながら花嫁を棒でたたいたり、家の庭を棒で突いたりして、餅をもらってまわる。この削りかけの棒をハラメ棒といい、この行事の名称はハラメ、ハラメ打チなどという。花嫁によい子供の出産を促がすための小正月行事である。この分布は諸県地方に限られ、鹿児島県に続いている。特にえびの市、小林市、須木町などによく行なわれたが、明治末から大正期までに消失した。須木村麓では十四日の小年の晩には子供たちが集まって、昨年嫁のきた家をまわった。各自で作ったハラメ棒の太いのをもっている。その家の庭の入口で「ハラメ、ハラメ、外を祝うか、内を祝うか」と言う。家の人が外というと、子供たちは石垣や庭土などをハラメ棒で叩いたり、突いたりした。内を祝えというと子供たちは座敷に上り花嫁が出て子供たちに吸物などを食べさせるものだった。

ナレナレ
これも子供組の十四日の行事で家々の成り木を棒で叩いてナレナレと唱えるもの。南那珂郡南郷町榎原では子供組の男の子は各自、柳の木の大きいのを皮をむき、その皮をぐるぐる回して巻きつけておいたのを肥松の火でいぶして、左巻きの白黒の模様のついたナレナレ棒を作る。これをもって家々の蜜柑や柿の木を叩く。叩きながら声を合せて「ナレナレ、柿ノ木、生ラズバ、デグジドンニ申シテ、根カラ、葉カラ、切ッテクレル。ナラシタモンシ、ナラシタモンシ。」と唱える。家人が子供たちに餅を与える。 生り木を叩く棒はナレナレ棒とか刀とかと言う。その作り方は柳や榎の皮をむいて、榎原の例のようが白黒の巻き模様をつけたものが多いが、削りかけのこともある。家々のまわりの蜜柑、橙、柿の木を叩く。唱え言はほぼ同形で「生らねば木戸の〇〇ドンに申して根から葉から切ってしまう」と脅すのだが、切る役に頼む〇〇ドンは大工のことだと言われる。終りの「ナラシタモシ」は柿や蜜柑の木が「生らせて下さい」「生ります」と豊産を約束する言葉である。このような典型的なナレナレの分布は県南の串間市、日南市、南那珂郡から宮崎市、宮崎郡に濃く、諸県郡に及んでいる。宮崎市の大瀬町などでは女の子が十五日にナレナレをし、男の子が十四日にモグラウチをする分業が行なわれていた。
 ナレナレではあるが棒で叩かない例がある。西都市の錦鏡や西米良村の小川などでは小正月の柳餅の一本をもって柿の木などに唱え言をする。また椎葉村大河内の戸屋の尾などでは家ごとにコノミヤという粟穂、稲穂の作りものを柿の木などの生り木の枝に掛けて、ナレナレと唱え言をする。柳餅や粟穂が稲穂にはナレナレ棒と同じような果樹を豊産にする呪力があると思われたのであろう。

モグラウチ
小正月に男の子供組が家々の屋敷の内のモグラを打って回り餅などもらう行事である。宮崎市爪生野では、男の子は十四日に集まって、モグラウチ棒を作る。二メートルほどの竹竿の先にワラの束をしっかりつけたもので、これを各自もって家々を一軒ずつ回って「モグラモチハ何モチカ、木戸ンクンダリ、タタキダセ」と唱えながら庭先や屋敷畑を叩く。家人が餅をくれる。この集落では女の子は十五日に集まってナレナレを行なった。現在はどちらも行なわれていない。
 モグラウチの分布は分布図にみる通りで県北とえびの市、小林市など空白域がみられる。現在行なわれている地方も点々とある。モグラウチ棒は竹竿にワラのホテをつけたものが用いられるが、椎葉村などでは現在はフジカズラの棒に変っている。唱え言の詞はいろいろある。「モグラジン、モグラジン、隣リン屋敷行ッテ、モツクリカエセ」(西都市調殿)「十四日晩ノウグラ打ツド(ドン)ココンウグラハ隣リニ行ケ(ドン)隣リノウグラハ浜ニ行ケ(ドン)浜ノウグラハ地獄ニ行ケ(ドン)」(宮崎市本郷南方)「モグラモチャーモタンゴツ。米ン餅ア一ツ、粟ン餅ア一ツ」(高原町蒲牟田)「十四日ノムグラウチ、紙ウ一帖打チダセ」(西米良村小川)など。小川では子供たちに習字紙を一帖ずつくれたのである。

鳥追イ
正月十四日に子供たちが集落の中や家々を回って畑や田の害になる鳥を追う行事である。この分布はモグラウチとは対照的に県北に限られていて、高千穂町とそれに続く東臼杵郡の町村で行なわれてきた。今も行なっている。諸塚町七ツ山、本村では現在は旧暦十二月三十日夜に行なっているが、この日を旧暦小正月としているのである。集落の男女の子供はみな、笹葉のついたナイダケ(和名メダケ)を一本ずつもって家々を訪れて庭面を叩きながら「ゼンゼホッホ、ウチノセドヤノ、粟稗食ウナ、ゼンゼホッホ。立トウ鳥ハ立チメセ、座ロウ鳥ハ座リメセ、ホーホー。明日立ツ鳥ヤ、年ン明ケン夜ニ今夜立ッテシマエ。」と歌い唱える。家々では子供一人一人に餅や菓子を与える。村の道を通る時には薮などを竹笹で鳥を追いながら通る。
 ハラメウチやナレナレでは削りかけや友巻きのような祝い棒で豊産の呪術をし、モグラウチや鳥追いでは棒や笹竹を用いて豊作を害する鳥獣を追う呪術をする。これらが小正月の子供たちによって行なわれることに重要な意味があるのである。

小正月の来訪者
小正月の十四日の夜に変装した人々が家々を訪れてきて祝いの品を渡し、歓待されて帰っていく行事を小正月の来訪者と呼んでいる。古いまわびと神の訪れと解されたり、古い異族との交易の名残とされたりしている。宮崎県での分布は幾つかの名称と内容の異なる圏を作っていて、県南ではカセダウチ、カセダウリ系と餅勧道系とがあり、県北に船入レ、松入レ、梨入レ系があり、その中間に拾い空白部がある。

カセダウチ
例えば串間市の辺保部では小正月の十四日の夜に地区の青年、ときに子供が何人か集まってそれぞれ風呂敷、手拭きで顔をかくし、蓑、カッパなどを着けて家々を訪れる。カジガラ(カジノキの皮をむいた茎殻)を粟穂にして竹を割って茎にしたものを差して作ったアワンホを何本も持って。家の戸口をこれでコツコツと叩いて来意を示し、家の者が出るとアワンホ一本を黙って渡す。家人が代りに餅を渡すと黙って帰るが、その時、人々が待ちうけていてバケツの水をかけるのをかいくぐって帰っていく。これをカセドリともカセダリとも言った。水をかけるのはその年の田の水が乾かぬようにするのだという。
 これに対して都城市とその周辺の町村ではカセダウリと称して少々異ったことをする。変装した大人や青年が家々に上り込んできて、持参した手杵、メシゲ、鎌など実用できる品を家人に高く売りつける。帰りにはやはり水を掛ける。このカセダウリの方は今も都城市の全国町、野々美町のように盛んに行なう例がある。
 カセダウチの持参するものをみると次のようである。粟ン穂持参以外に、ゼンナワ(銭縄、穴明銭をつなぐ小縄。串間市園田)、メシゲ(飯杓、日南市宮之浦)、端(柳二本をワラ結び、宮崎市木花)、大黒の絵(日南市鯛の子、南郷町下中村)、梨、マンガの絵(北郷町大藤)稲小積の絵(南郷村外之浦)、牛馬の絵(新富町三納代、ここは名称を馬絵配りといい、絵を馬屋に張った。)この品をみれば来訪者の性格も明らかになろう。

餅勧進
えびの市、小林市を中心に鹿児島県の姶良郡にかけて、現在もよく見ることができる。えびの市大明司では正月十四日の夜に成人の男女が十数人ずつ変装し面など被り、太鼓や石油缶など叩いて訪れて、庭で踊ったり騒いだりする。厄年の男女を中心にした組が多く、厄払いの餅という。餅勧進は餅もらいの意で、負籠を負った一人が餅を集めていく。祝いの品は持参しないのは来訪行事としては変遷をへているものと思われる。

船入レ・松入レ・犂入レ
県北の高千穂町、五ヶ瀬町で昭和二十年頃までよく行なわれたが、現在は高千穂町籾崎で子供たちにより犂入レが行なわれているだけとなった。三つ昔に集落の男子青年の行事で、船入レは家々の庭に宝船が来航した形を作る。十四日夜、家々が寝静まった頃に青年たちがその家の薪などを用いて田植帖ほどの大きい船の形を作り、寧の帆を張り、ワラ人形の船頭をのせる。明き方からきた千石船だといいそのとも網を家内の大きい柱に結びつけておく、家では翌日は青年をまねいて宴をする。松入れの方は昨年中に嫁をもらい、長男出生、家新築などの喜び事があった家の表の間に、二メートルほどの根つきの柱の木二本を立てる。残俵のようなものの上に立て、シメ縄をはる。この松の下で青年たちを招いて祝いの宴をする。
 犂入レは現在は籾崎地区の子供たちが男女とも集まって十四日夜に家々を回る。子供たちは表の間に上って囲炉裏の横座に座った戸主のまわりを回って犂で畑を耕やす仕草をする。縄の鉢巻きをを手にした子供たちが手にとって犂を引いて囲炉裏の囲りをめぐり、終日には主人を角で突き倒してしまう。子供たちは餅をもらって次の家に行く。昔から犂入れ用に作ったやや小型のハタケコがうといこうして犂が伝えられている。
 この他にも椎葉村川の口には昔、小正月に柴入レといって、頬かぶりをした青年が柴の束をもって家に上りこんできて御馳走になる行事があったといい、〇〇入レという名の小正月来訪者が県北山地に相当に広く分布していたことを語っていよう。