宮崎の民俗研究団体

(一)宮崎県内の研究団体

 民俗研究において何よりも重要な研究は地元の人々による調査・研究である。最も生の第一次資料を収集可能であり、長期間時間をかけた民俗誌の作成なども可能である。日本民俗学を支えてきたのは地域の調査者による報告書に負う要素が多く、地域の研究から中央の研究に影響を与えることも少なくない。

【日向郷土会】

 『日向郷土志資料』については、柳田國男によって次のように紹介されている。
「オバケ研究の専門雑誌が、最近に盛岡からでようとしている。また宮崎県の『郷土志資料』には、あの地方の妖怪変化の目録が、先々月から連載せられている。ばけ物はもちろんいたって古い世相の一つではあるが、それを観ようとする態度だけがこの頃やっとのことで新しくなり始めたのである。」(『妖怪談義』)
さすがに早くから妖怪研究に着手した日野巌氏の主催する会だけあって、柳田國男の目にも止まったのであろう。日向郷土会の活動については、当時の会規約で当初より研究会としての機能を果たしていたことが伺える。
日向郷土会規
一、目 的 古国日向の自然と人文を各方面から探求し、広く材料を蒐集保存する。
一、仕 事 イ、郷土資料の蒐集と研究
      ロ、研究会、座談会等の開催
      ハ、各地採訪旅行
      ニ、県外研究者との連絡並に資料の交換
      ホ、雑誌「日向」郷土志資料の刊行
一、入会を希望する方は御申込みを願ひたし。雑誌購読者は会員と見倣す。
一、事務所 宮崎市神宮町二三、日野巌方

 こうした研究会の活動も個人中心で運営してきたこともあってか、昭和一四年九月、廃刊となる。最終巻には次のような言葉が挙げられている。
「日向郷土読本を以て、一先づ雑誌「日向」を廃刊したいと思ふ。明年は紀元二千六百年であり、諸事すべて一新の気運である。「日向」も昭和六年一月創刊以来、既に八年を経過した。その間、日向の文化に多少とも貢献し得たことを喜んでいるが、この頃は少しく疲れが見えた。この際潔く廃刊したいと思ふ。小倉文華堂主人が経済的にも精神的にも八年余の長い間「日向」を育んで下さったことを読者とともに感謝せねばならない。」
                     (第一八ー二〇合輯)
 この後、日向郷土会は『日向郷土読本 第一巻』(日野巌・日向郷土会編 一九三九)や『その日その日宮崎県』(日向郷土会編 日向郷土会出版部 文華堂出版部 一九七四 三)等の出版物を出している。

【『日向 郷土志資料』】

・創刊輯、昭和六年一月、美濃判謄写版刷、
 松本友記「高千穂夜神楽に就て」、田原重義「大蛇の話」、金丸豪・遠藤茂「日向の方言」、日野巌「木喰上人作牛王寶印」、日野巌「妻萬宮大般若経」、日野巌「鶉車」、「余録(種痘踊り、古書にあらはれし宮崎、爐の周囲の座席名、宮崎県郷土研究家名簿(一))」、(「創刊号」は第十輯(昭和八年二月)の付録として再録されている。)
・第二輯、昭和■年■月、美濃判謄写版刷、
 「宝暦十一年日向国那珂郡江田村明細帳(一)」、日野巌「景清考」、日野巌「日向妖怪種目」、金丸豪「鬼火焚き」、加藤富司雄「炭焼小五郎の歌」、加藤富司雄「祝ひの歌」、日野巌「ロといふ接尾語」、日野巌「石奈古について」、日野巌「ジョのつく方言」、金丸豪・遠藤茂「日向方言語彙(形容詞の部)」、(「第二輯」は昭和七年八月に再録されている)
・第三輯、昭和■年■月、美濃判謄写版刷、
 「宝暦十一年日向国那珂郡江田村明細帳(二)」、松本友記「江田の五穀成就踊」、桂又三郎「景清伝説」、加藤富司雄「稚児鞍ケ淵の傳説」、山之城民平「石なごの話」、湯浅啓温「石見のナンゴ」、能田太郎「方言雑考」、小川新一「方言俚謡評釋(一)」、日野巌「日向方言語原考(一)」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(人倫)」、日野巌「霧島山の佛法僧」、「余録(文政十一年江田村取調帳、挨拶の言葉、子守歌、ジョのつく方言)」
・第四輯、昭和六年九月、菊判活版刷、
 小川新一「方言俚謡評釋(二)」、東條操「日向方言に関する私見二三」、中道等「奥州の盲人の話」、山之城民平「伊東満所の家系」、日野巌「日向社寺明細記(一)磐戸神社」、木本直「日向南瓜」、松本友記「日向初等教育史話」、河井田政吉「檍ケ原の祓除」、中山太郎「景清伝説を記載せる書目」、松本友記「刺なきイバラと片目の魚」、田原重義「廃れ行くか飫肥泰平踊」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(人倫の部)」、能田太郎「蟲の名の太郎(追補)」、大槻憲二「方言に於ける敬称と蔑称」、日野巌「再びジョのつく方言に就いて」、日野巌「日向郷土誌文献目録(一)」、
・第五輯、昭和七年一月、菊判活版刷、
 〈歴史・地理〉山之城民平「飫肥に於ける吉利支丹紋章」、河井田政吉「延岡町の切支丹遺跡」、河井田政吉「白鳥官山に在りし巨木」、瀬之口傳九郎「文明六年三州豪族記」、山之城民平「飫肥藩社寺知行高」、樅井甫「旧佐土原藩の教育」、青葉涼二「日向文献目録(二)」、〈民俗・方言〉小川新一「方言俚謡評釋(三)」、鷲見桃逸「玩具のない国は民族が滅亡する」、日野巌「日向の民家間取(一)」、清水武彦「佐土原藩を中心にして行はれた宮参り」、松本友記「正月に訪れ来るもの」、青葉涼二「瓜生野村八幡踊りの歌」、松本友記「日向地名伝説(一)」、星野厳夫「日向地名伝説(二)」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(天文の部)」、松本友記「鹿児島県垂水町の正月慣習」、〈生物・産業〉遠藤茂「日向の椎茸」他。
・第六輯、昭和七年六月、菊判活版刷、
 〈歴史・地理〉瀬之口傳九郎「椎葉山に関する近世の記録(其一)」、日高次吉「佐土原藩祖島津征久就当時に於ける城下侍の出所調査」、日高徳太郎「佐土原藩の教育」、草野實「考古漫録(一)」、三好利八「日向文学■印に就て」、青葉涼二「日向郷土文献目録(三)」〈民俗・方言〉小川新一「方言俚謡評釋(四)」、日野巌「日向女子名の統計的考察」、松本友記「佐土原の夏祭に於けるダンジリの社会学的考察」、四本正秋「的射について」、河田晴夫「日向北部に行はるる迷信」、松本友記「佐土原の民俗」、諸家「各地の年中行事(一)」、古村虎雄「伝説童話、神代の崎田」、日野巌・遠藤茂「日向語彙(風呂の部)」、
・第七輯、昭和七年十月、菊判活版刷、
〈民俗・方言〉永田吉太郎「童戯と訛音」、ケンベル「景清」、谷口龍太郎「日向方言雑記」、日野巌「日向女子名の統計的考察補遺」、諸家「日向の冠婚葬祭」、四本正秋「飫肥のヤゴロ様」、松本友記「河童の話」、日野巌「日向語彙(植物)」、青葉涼二「日向郷土文献目録(四)」、
・第八・九合輯、「霊峰霧島山」特集、昭和八年一月、
・第十輯、昭和八年三月、菊判活版刷、
瀬之口傳九郎「椎葉山に関する近世の記録(其二)」、青葉涼二「日向郷土文献目録(五)」、濱田隆一「民俗断篇」、遠山渫雄「延岡地方の方言」、四本正秋「飫肥田上八幡の秋季例祭の催し一つ」、桐山英則「児湯郡妻町の謎」、後藤弘「田の草取り歌」、後藤弘「門川村の民俗」、
・第十一・十二輯「日向の青島」特集、昭和八年四月、菊判活版刷、
 日野巌「青島素描」、長友千代太郎「青島神社」、中島悦次「阿遅麻佐能志麻考」、瀬之口傳九郎「日記紀行に見ゆる青島」、「海幸、山幸伝説」、日野巌「海幸、山幸伝説のわに」、樅井甫「青島島名雑考」他。
・第十三輯、昭和八年十月、菊判活版刷、
 青葉涼二「日向郷土文献目録(六)」、松本友記「知識伝承の一形式としての俚言」、上田強「日向に於ける民事慣例」、能田太郎「あま考」、日野巌・遠藤茂「日向語彙(動物の部)」、山之城民平「大平歌」、河田晴夫「盆踊音頭集(日向北部)」、
・第十四輯、昭和九年五月、菊判活版刷、
 松本友記「をこぎ小屋を覗き見るの記」、松本友記「鬼八伝説」、河田晴夫「盆踊音頭集(二)」、能田太郎「精霊と虫」、青葉涼二・遠藤茂「日向語彙(植物の部)」、
・第十五輯、昭和十年二月、菊判活版刷、
日高醇「佐土原地方の禊祓」、河田晴夫「盆踊音頭集(三)」、四本正秋「日向の蛍狩俚謡」、鬼塚厚「古月禅師作詠歌」、兒玉寿太郎「古語と方言」、兒玉寿太郎「都城方言考」、遠藤茂・伊地知重基「飫肥の方言(一)」他、
・第十六・十七合輯「佐土原・妻・西都原」特集、昭和十三年四月、菊判活版刷、
青葉涼二「一ツ瀬清流の南岸に佇みて」、樅井甫「広瀬より佐土原・都於郡・妻へ」、日高篤重「日向吾平山陵」、三好利八「佐土原の伝説地」、鬼塚厚「安政年間に於ける妙心寺派佐土原寺院」、日高醇「佐土原地方の禊祓」、松本友記「佐土原夏祭に於けるダンジリの社会学的考察」、松本友記「佐土原の民俗」、青葉涼二「佐土原の郷土玩具」、三好利八「佐土原の刀匠」、三好利八「佐土原の方言」、「都於郡の習俗」、「都於郡の俚謡」、「都於郡の伝説」、黒木正美「妻史」、兒玉陵峯「妻の神代伝説地」、日高次吉「妻町在長徳寺に絡まる挿話」、青葉涼二「木食上人の作った牛王寶印」、青葉涼二「妻萬大明神施入の大般若経」、「妻・上穂北の年中行事」、「妻の俚謡・民謡」、「妻地方の俗信」、「妻地方の方言」他、
・第十八・二十合輯「日向郷土読本」、昭和十四年九月、菊判活版刷、

日野巌

日野巌は、一八九八年山口県生まれ、東京大学農学部卒業後、大正十五年に宮崎高等農林学校教授となる。宮崎県の自然や民俗に注目し、日向郷土会を主宰、雑誌『日向(郷土志資料)』を刊行する。昭和十五年には県立上代日向研究所の民俗部主査となる。昭和十七年に陸軍司政官として南方に転出し、その後、山口大学教授・宇部短期大学教授を歴任し、昭和六十年に逝去された。
 著書としては次のようなものがある。
『動物妖怪譚』日野巌 養賢堂 一九二六(復刻 有明書房 一九七九)
『日向方言論考』日野巌 上代日向研究所 一九四二(研究資料第一)
『植物怪異伝説新考』日野巌 有明書房 一九七八
『植物歳時記』日野巌 法政大学出版局 一九七八
「日向地方妖怪種目」『民族二ー三』昭和二年三月
「宮崎県宮崎市付近(俗信)」『民族二ー六』昭和二年九月
「日向南部の河童」『民族三ー3ー5』昭和三年七月

【日向史学会】

 日向史学会は、日高重孝を会長に、昭和二十七年八月に発足された会である。日高は、創刊号の「発刊の辞」で「吾が日向は、文献資料には乏しいが、伝承と遺跡とは、実に豊富な国である。例えば前者では肇国以来の神話伝説の類、後者では先史時代から、原史時代に亘り、特に国内各所に累々たる三千の古墳群と夥しい出土品がある。」と、宮崎という土地が歴史学よりも考古学や民俗学が主体ですすめるべきであることを述べている。
 「日向史学会要項」には、「今回児湯郡妻町に本部を有する日向文化同好会を中心に延岡市の尚風会、日向古蹟同好会を初め県下の同学の士を以て日向史学会を組織し、日向史の科学的研究に歩調を揃えて新発足することとなりました。本会の目的とする所は県下同学の士の力を併せて日向史の科学的究明に乗り出すことにあります。従って狭義の史学に限らず考古学、地質学、地理学、民俗学、言語学、美術史、工芸史等あらゆる分野に亘ることといたします。」とその目的が記されている。役員は、会長が日高重孝、副会長に石川恒太郎と鬼塚正二、幹事に日高次吉・吉野忠行・日高正晴・前田厚・小手川善次郎・野田敏夫があたった。

【『日向史学』】

・創刊号、昭和二十七年十月、石川恒太郎「県の研究」、日高次吉「封建制日向の諸問題」、前田厚「地名考」、石川恒太郎「延岡陶窯史考」
・第一巻第二号、昭和二十八年四月、日高次吉「封建制日向の諸問題ノ二」、日高正晴「日向古代の再検討(上)」、石川恒太郎「西南戦争に於ける薩軍の大払制度に就て」、日高徳太郎「記憶に残れる明治中期思想の片影」
・第一巻第六号、石川恒太郎「日向に於ける横穴古墳及地下式古墳とその分布に就て」、日高次吉「或る家の歴史(一)」、鬼塚正二外「県立博物館設置運動誌」、日高次吉「荘園制日向の諸問題(三)」
・第一巻第四号(東米良特輯号)、昭和二十九年一月、日高重孝「銀鏡史跡調査紀行」、石川恒太郎「東米良村銀鏡調査報告」、日高正晴「銀鏡遺蹟調査の概報」、日野巌「県立博物館設置運動前史」、日高次吉「或る家の歴史(二)」、竹下雄一郎「佐土原藩職制遺考」
 ※昭和二十五年六月七日から十一日まで、日向文化同好会(日向史学会の前身)の日高重孝・石川恒太郎・鬼塚正二・吉野忠行と県から寺原主事、そして報道として日向日日新聞妻支局長小畑正男による、銀鏡史蹟調査団の一行七名が訪れた。
 『日向史学』は、この号(第一巻第四号)を以て休刊するが、昭和三十四年五月に復刊する。復刊に際して記された「復刊のことば」には、次のようにある。
「”日向史学”はさきに日向史学会によって去る昭和二十七年に創刊されてより第四号まで刊行したが、昭和二十九年に会の幹部を挙げて県の経済史編さんに動員されたため、その後休刊の状態となった。」とあり、「当時は終戦後のインフレが未だ充分おさまらない時代で、社会も人心もまだ不安定な状態であったのと、”日向史学”を純粋な学術的雑誌にしようという会員の希望もあったので、雑誌そのものにも大衆性を欠いだきらいがあった。ところが、最近においては社会情勢が相当に落ちつき、学校教育の上からも社会科として、また新しい歴史としてわれわれの生活のよって立つ郷土の歴史は当然とり上げねばならないこととなった。それらの状況から、再び日向における地方史家をはじめ、幅広い同好の士をもって日向史学研究会を組織しようという動きが二、三年来続けられたが、これが結実して旧蝋宮崎市の社会教育会館で創立総会が開かれ、機関誌としては従来中央の学会にも名の通っている”日向史学”を復刊することとなった次第である。」
 復刊後の『日向史学』は、橘百貨店や日向日日新聞社の後援のもと、復刊第二号(昭和三十五年二月)まで続く。橘百貨店は日高重孝著『日向今昔物語(改題)』を発行することとなる。

【宮崎県総合博物館研究紀要】

・昭和四七年度
 「三川内の調査について」、沢武人「三川内の農耕儀礼」、泉房子「産育儀礼にみる忌みの習俗」他、
・昭和四八年度
 沢武人「春耕・秋収ー古代の紀年法についての提案ー」、
・昭和四九年度
 沢武人「春耕・秋収ー古代の紀年法についての提案ー」、泉房子「宮崎のテゴ」、
・昭和五三年度
 泉房子「焼き畑地帯の食生活ー西米良の民俗調査からー」、宮脇繁他「博物館における教育普及活動を考えるー森の教室を中心としてー」
・昭和五四年度
 泉房子「日向の山村生産用具(その一)ー重要有形民俗文化財指定を指向してー」

【宮崎県地方史研究会】

 現在継続されている宮崎県立図書館による『宮崎県地方史研究紀要』はこの研究会が母胎となっていることから、宮崎県の歴史研究に与えた影響は大きい。この研究会の発足について野口逸三郎は次のように述べている。
「いま宮崎県地方史研究会の名を称している私どもの研究グループは、もともと自然発生的な同好者の集まりであった。妻高校を退かれた日高次吉氏が県立図書館でひとりコツコツと佐土原島津文書の筆写の仕事を続けて居られるところに、昭和四十四年四月から筆者も同じ図書館の一室で総合博物館建設の手伝いをすることになり、そこに浜田宣弘、富永嘉久、沢武人、大野岩男、河野聚、杉田秀清などの諸氏がしばしば顔を見せて、宮崎県の地方史研究の現状や、県内に残っている史料が年々消滅の危険にさらされていることなどが話題になった。(中略)たまたま昭和四十六年の秋頃だったと思う、久しく所在が分からず幻の書になりかけていた「高岡名勝志」が偶然の機会から見付かったのでこれを研究資料として同好者の間に頒布することになった。その校訂編輯の責任を明らかにする必要上研究グループの名称を具体化することになって誰云うとなしに「宮崎県地方史研究会」に決まった。昭和四十七年三月のことである。」
・『宮崎県地方史研究会会報 創刊号』(昭和五十年)
 日高次吉「御木曳」、末長和孝「近世初期における飫肥藩の「門」についての一考察」、沢武人「夢を追うー古事記と魏志倭人伝とー」、永峯弘道「大光寺文書「雲水記」について」、富永嘉久「三位入道伊東義祐の人間像 試論」、中原正久「幕末における諸県郡寺院調査 その一」、永井哲雄「「日向国図田帳」の一、二の点について」他、
・『宮崎県地方史研究会会報 二号』(昭和五十一年)
 大野岩男「「日向記」の成立に関する考察」、泉房子「民具の調査」、沢武人「民具調査の背後にあるもの」、永井哲雄「棟札について」、富永嘉久「八幡宇佐宮宮崎荘の周辺」

【宮崎県地方史研究紀要】

 『宮崎県地方史研究紀要』は、昭和四九年度(昭和五〇年三月)より刊行されている。年度を通して催される地方史講座の発表を紀要に原稿化したもので、当初はあるテーマを以て企画されていた。そのそのタイトルのうち民俗に直接関係する項目のみをここでは取り上げる。
・昭和四九年度
 比江島重孝「日向の民話」、青山幹雄「日向の田の神像」、黒木正雄「日向の馬」、泉房子「日向の民具」、土持穆芳「日向の社寺」、
・昭和五三年度
 澤武人「庶民の生活」、野口逸三郎「時代に生きた人々」、
・昭和五五年度
石川恒太郎「藤江監物」、青山幹雄「日講上人と古月禅師」、
・昭和五九年度
 泉房子「漁村の生活誌」、矢口裕康「生活と民間説話」、吉野忠行「日向修験の一端」、屋敷繁「氏神信仰に関する一考察」、山口保明「宮崎県郷土資料利用の手引」、
・昭和六〇年度
 寺原俊文「文化財保護制度の推移について」、原田解「日向民謡の歩み」、山口保明「宮崎の神楽の継承について」、中島寅雄「椎葉村研究について」、
・昭和六一年度
 泉房子「椎葉・西米良の焼畑農耕」、青山幹雄「佐土原の伝統芸能」、中島寅雄「塩の需給と生活慣行」、徳永孝一「宮崎県の養蚕と製糸について」、瀬戸山計佐儀「廃仏毀釈と一向宗弾圧」
・昭和六二年度
 青山幹雄「まぼろしの佐土原人形」、富永嘉久「上井覚兼日記にみる戦国武将の文化生活について」、矢口裕康「宮崎のわらべ唄とその伝承」、山口保明「日向の狩猟とその伝承」、前田博仁「照葉樹林文化と宮崎」
・昭和六三年度
 前田博仁「修験大円と庶民信仰」、池田純義「性空上人と霧島文化」、
・平成元年度
 青山幹雄「日記にみる日向路」、前田博仁「近世日向の仏師」、迫田秀俊「えびの地域の仏教文化(資料)」、池田純義「県下の大将軍信仰」、
・平成二年度
 瀬戸山計佐儀「都城方言の特徴」、
・平成三年度
 吉野忠行「日羅について」、井上重光「木花相撲踊りと宮崎周辺の草相撲」、池田純義「日南地方の神楽」、滝一郎「高千穂採薬記の植物民俗」、
・平成四年度
 矢野一弥「日向における廃仏毀釈の諸相」、南谷忠志「宮崎の植物民俗覚書」、
・平成五年度
 尾形森衛「日向の民謡」、中武雅周「米良地方の神楽」、黒木亜美子「宮崎の神楽」、ロバート・アダムス「日向の神話」、
・平成六年度
 若山浩章「近世後期延岡藩の紺屋についてー村方の紺屋関係史料の紹介ー」、渡辺一弘「細島婆伝説考」、那賀教史「日向の雨乞いにみる諸相ー文献記録と聞き取り伝承のはざまからー」、前田聰「本庄地方の習俗ー日待・月待を考えるー」、永松敦「椎葉村の修験の作法ー」、高橋政秋「ふるさとの歌をたずねてーわらべ歌ー」、前田博仁「宮崎の正月行事」、
・平成七年度
 斎藤政美「椎葉の暮らしと植物」、寺原重次「昔話と子供の暮らし」、徳永孝一「戦時中の県民生活についてー昭和十八年の記録を中心にー」
・平成八年度
 中武雅周「山村文化の発掘ー今忘れられていることー」、渡辺一弘「宮崎県沿岸部の漁法について」、原田解「新民謡と時代相」、南邦和「自分史にみる宮崎の文学」、森松平「宮崎の食の豊かさー宮崎の食文化は日常食にありー」、黒木亜美子「宮崎の民俗芸能の楽器と音楽ー神楽を中心としてー」、興梠英樹「風土と文学」、川口敦己「宮崎の雑誌出版(一九四五~七〇年)ー「宮崎の出版史」のためのノート(一)」、
・平成九年度
 田代学「宮崎都市計画史の概要」、永松敦「南九州の十五夜芸能」、徳永孝一「明治期の共同体と社会生活」、前田博仁「日向国における廻国僧ー六十六部廻国を中心としてー」、

【宮崎県教育委員会】

 『宮崎県文化財調査報告書』は、第一輯が昭和三十一年三月に刊行されている。〈民俗資料〉に関しては、田中熊雄「椎葉山村の民俗資料」がある。田中熊雄の椎葉村調査は、昭和二十九年に尾向・十根川・不土野・松尾で行われた調査報告である。生産・狩猟・運搬・信仰関係の民具中心の調査であった。また、日高正晴「東米良の民俗資料(狩猟用具)」は、昭和二十九年十一月十一日から十五日まで、そして十二月十八日、昭和三十年九、十月の三日間、昭和三十一年三月二日より三日間に行われた調査をまとめたものである。このほか、〈郷土芸能〉に関しては、「柚木野人形(上野村)」「俵踊(本庄町)」「バラ太鼓踊(八代村)」「神事(高原町)」「神楽(東米良村)」の報告がある。第一輯の内容は、民俗資料・郷土芸能・植物の項目であるが、今後の調査報告書は埋蔵文化財関連中心になっていく。
 『日向の民俗芸能』は、昭和三三年度から昭和三十五年度にわたって宮崎県教育委員会が行った初めての民俗調査をまとめた初めての刊行物である。当初より「今日の変転複雑な生活の中において、価値高い祖先からの文化遺産に接する機会を持つとともに、資料的には日本芸能史研究の一助とするため、本年度より三ヶ年計画で県内民俗芸能の詳細な記録に着手したものである。」と調査研究の重要性に理解を示している。全三輯の目次は次のようである。
 『日向の民俗芸能 第一輯』
  一、黒口部落の伝承ー棒術と臼太鼓ー(県文化財専門委員 柳宏吉)
  二、高千穂町三田井における伝承の一例ー棒術を中心としてー(同右)
  三、鴫野の棒踊(県文化財専門委員 安田尚義)
  四、俵踊(県立大淀高校教諭 吉野忠行)
  五、西都地方の臼太鼓踊(県文化財専門委員 日高正晴)
 六、カネオドリ(鉦踊)(県文化財専門委員 前田厚)
 『日向の民俗芸能 第二輯』
  一、高千穂の夜神楽(県文化財専門委員 柳宏吉)
  二、熊襲踊(県文化財専門委員 前田厚)
  三、バラ太鼓踊(県文化財専門委員 石川恒太郎)
  四、神楽(県文化財専門委員 安田尚義)
  五、東米良の夜神楽(県文化財専門委員 日高正晴)
 『日向の民俗芸能 第三輯』
  五カ瀬の源流をたずねてー五カ瀬町の太鼓踊り・棒術・神楽・荒踊りー(柳宏吉)
  泰平踊(石川恒太郎)
 『民俗資料緊急調査報告書ー高千穂地方の民俗ー』(昭和四六年)は、国鉄高千穂線開通に伴い、高千穂地方の習俗、民間伝承、山村生活用具などの散逸・消滅が予想されたことから、国庫補助事業により、宮崎県教育委員会が昭和四十五年七月に行った調査報告書である。調査員には、祝宮静(名城大学教授)、田中熊雄(宮崎大学)、日高正晴(県文化財専門員)、沢武人(県総合文化施設準備事務局主任)、田中茂(県立博物館主事)に加え、県社会教育課職員、宮崎大学学生らが参加した。地元調査員としては、甲斐徳次郎・甲斐畩常・興梠弥寿彦・原慶二・西川功があたった。
 内容は、「第一編 総論」には、総観、衣・食・住、生産・生業、交通・運輸・通信、交易、社会生活、信仰、民俗知識、民俗芸能、人の一生、年中行事の項目があり、「第二編 各論」には、麻の生産習俗、麻の生産用具、田植に関する習俗、狩猟習俗、庚申信仰、神祭に関する習俗、誕生習俗、婚姻習俗、葬式習俗の項目があげられている。
 『宮崎県民俗地図(宮崎県文化財調査報告書)』(昭和五三年)は、昭和五一年度(一〇〇か所)から五二年度(五〇か所)にかけて行われた聞き取り調査(国庫補助による「宮崎県緊急民俗文化財分布調査」)を元に作成された民俗地図である。この原資料は刊行されてはいないが、詳細な調査であるため、『宮崎県史 資料編 民俗1・2』では「民俗事象調査」として利用されている。原資料は現在宮崎県総合博物館は所蔵している。この調査は県下の民俗研究者・市町村文化財調査委員・小中学校教諭が当たり、話者には七〇歳以上の老人を二名以上選んで行われた。地図は沢武人(宮崎県総合博物館学芸課長)・泉房子(同学芸員)・立元久夫(文化課主事)が作成した。地図の内容は信仰・衣食住・農業・運搬・市・若者組・講・人生儀礼・年中行事など六一項目が取り上げられている。
 『宮崎県の民謡』(昭和五六年)は、昭和五十四・五十五年度にかけて行われた民謡調査の報告書である。調査委員には、石川恒太郎(県文化財保護審議会委員)・片山謙二(都城泉ヶ丘高等学校教諭)・高橋政秋(北郷小学校教諭)・鳥集忠男(都城市文化財調査委員)・原田解(日向民謡保存会顧問)・有川綱彦(教育研修センター研修主事)・正入木久男(県教育庁指導主事)・奈須稔(宮崎県民謡会会長)・松永建(宮崎大学教育学部助教授)・柳田昭(大宮小学校教諭)・垣内幸夫(宮崎大学教育学部講師)・川添益男(県教育庁指導主事)があたり、現地調査員としてのべ六三名が参加している。
 内容は、Ⅰ「民謡調査の概要」、Ⅱ石川恒太郎「民謡の背景」、Ⅲ片山謙二・原田解「宮崎県民謡の概観」、Ⅳ「本県の民謡」、Ⅴ「民謡に関する文献」である。
 また、この報告書には『宮崎県の民謡(文献集)』も同時刊行されている。その内容は、片山謙二「諸塚の民謡」、鳥集忠男「南九州の歌謡」、鳥集忠男「ふるさとの歌」、原田解「五つの川の唄」である。
 『宮崎県の諸職』(昭和六三年)は、昭和六十一・六十二年度に文化庁の指導と補助金を元に作成された報告書である。「宮崎県内各地に伝承されてきた様々な生活用具やその他の用具・用品等を製作・加工する伝統的技術は、地域に根ざした無形の民俗文化財としてまた、優れた工芸技術の基盤として価値の高いものであり、それに使用されてきた用具類には注目すべきものが少なくない。ところが、これらの用具類も、近時の新しい素材や技術の実態及び変遷について調査・記録し、関係資料の収集・保存・活用あるいは伝統的工芸技術の保存に資することを目的とする。」とある。調査件数は、昭和六十一年度が一二〇件、六十二年度が六〇件の合計一八〇件の内、一六五件を収録した。さらにその中から一〇人の諸職について細かく記載されている。その項目は、かるいづくり(飯干五男・日之影町)、木地師(小椋幸四郎・五ヶ瀬町)、碁石づくり(黒木芳文・日向市)、和紙づくり(山崎弘・西都市)、薬づくり(深田一子・川南町)、手揉茶づくり(大石久次・都城市)、弓づくり(坂元秀明・都城市)、石工(久島修・日南市)、はつり師(福山栄・日南市)、船大工(中村正二・串間市)である。
 調査事務局には宮崎県教育委員会文化課があたり、調査委員には、山口保明(県史編さん室主幹)・鳥集忠男(司法書士)・中武雅周(西米良村教育委員長)・山下正明(県史編さん室主幹)・矢口裕康(宮崎女子短期大学助教授)が、このほか二九名の調査員が調査に当たった。
 『宮崎県の民俗芸能』(平成六年)は、平成四、五年度に行われた調査を元に作成された報告書である。調査者には片山謙二・黒木亜美子・興梠敏夫・高橋政秋・中武雅周・原田解・矢口裕康・山口保明・渡辺一弘に加え、県文化課の前田博仁・那賀教史があたった。
 宮崎県の民俗芸能の概要のほか、詳細調査として次の民俗芸能が取り上げられている。
下北方六月踊り(宮崎市)・生目神楽(宮崎市)・青島臼太鼓踊り(宮崎市)・船引神楽(清武町)・田野雨太鼓(田野町)・巨田神楽(佐土原町)・城攻め踊り(高岡町)・ヨイマカ太鼓台(国富町)・唐人踊り(綾町)・曽我兄弟踊り(綾町)・田ノ上八幡の獅子舞(日南市)・風田の盆踊り(日南市)・広野のメゴスリ(串間市)・潮嶽神楽(北郷町)・谷之口てひ踊り(南郷町)・高木のベブドン(都城市)・新馬場の棒踊り(三股町)・中原太郎踊り(山之口町)・あげんま(高城町)・谷川の俵踊り(高崎町)・地頭踊り(高崎町)・山田バラ踊り(山田町)・細野の輪太鼓踊り(小林市)・西長江浦の大太鼓踊り(えびの市)・香取神社の打ち植え(えびの市)・狭野神楽(高原町)・東麓の兵児踊り(野尻町)・夏木の棒踊り(須木村)・石野田の臼太鼓踊り(西都市)・蚊口のじろま踊り(高鍋町)・新田神社のいぶくろ(新富町)・狭上神楽(西米良村)・お里まわり(木城町)・通浜の三尺棒踊り(川南町)・寺迫の奴踊り(都農町)・伊形の花笠踊り(延岡市)・永田のひょっとこ踊り(日向市)・門川神楽(門川町)・羽坂神楽(東郷町)・鬼神野のいだごろ踊り(南郷村)・島戸神楽(西郷村)・小原練り(北郷村)・上鹿川神楽(北方町)・家田の盆踊り・音頭(北川町)・市振神楽(北浦町)・釜の前チョイガマカ(諸塚村)・小崎の山法師踊り(椎葉村)・上田原の楽踊り(高千穂町)・大人歌舞伎(日之影町)・古戸野神楽(五ヶ瀬町)。ちなみにこの巻末には宮崎県内の民俗芸能の一覧表が掲載されている。