西都「まっぽす」神楽~源流と変化の共演~

解説文:那賀教史

<はじめに>

本内容は、令和三年九月十八日(土)と十九日(日)の二日間、西都市西都原御陵墓前広場で開催されました内容を、解説の流れに沿って記したものです。

第一日:妻高校生徒の皆さんによる「書道パフォーマンス」があり、正面の南北にその作品が掲示されました。オープニングの神事、銀上学園生徒による「花の舞」のあと、開会宣言がなされ、神楽の舞台となりました。

第二日:宮崎犬による「神楽ダンス」のあと、オープニングの神事、穂北神楽、中学生により「花鬼神」が舞われ、開会宣言がなされて神楽の舞台となりました。すべての神楽が奉納されたあと、主催者挨拶がありました。
ここからは、解説内容に沿って、神楽の価値紹介を紹介していきます。

<第一日 九月十八日(土)>

【西都市の紹介】
皆さま、ようこそお越しくださいました。
西都市は山地も多く緑豊かで、アユのはねる一ツ瀬川、米や野菜(ピーマン、マンゴー、スイートコーン、キューリ、ゴーヤ、ニラ、ゆずなど)の穀倉地帯としての平野が広がり、自然の美しい所です。
市内には、三一一基の古墳が残る西都原古墳群があり、古代には日向の国府があり、栄えた所です。中世には、伊東氏が日向の中心地として城を築きました。また、近世には佐土原藩、人吉藩、天領の地として支配されました。
また神話伝承の話や地名も残されています。江戸時代には、児玉実満によって神話伝承の地の研究がなされました。
明治から大正時代にかけては、県内でも先進的な金融経済の中心地として栄えました。
現在、西都市には、西から、銀鏡神楽、尾八重神楽、穂北神楽、市の中心部に神代(かみよ)神楽、南部には高屋神楽の五つが残されています。
このような歴史的な背景の中で、神楽が大事に継承されてきました。
本日は、西都市に残されている五つの神楽を紹介し、その魅力をたっぷりとご紹介いたします。

穂北神楽【市神楽】

穂北の地は、コノハナサクヤヒメが投げた稲の穂が流れ着いた所という伝承から名づけられたということです。清流一ツ瀬川が流れ、豊かな水田が広がり、下水流の臼太鼓踊りなど昔の芸能や伝統を残している地域です。
江戸時代文化五(一八〇八)年に伊勢派の神楽三十三を奉納したことが伝えられています。
戦争中も、不足する御幣などの紙を自分たちで漉き、色粉も作って御幣を捧げ、神楽を続けたという歴史があります。
現在は秋の大祭に、穂北・南方・速川・童子丸神社の四か所の神社に奉納しています。大変勢いのある神楽として知られます。
御神屋の周囲を竹で囲い、米蔵にみたてた、えつりという方法で独特なものです。竹は稲穂を表現しています。
これから舞っていただく市神楽は、御神屋を作り終えたあとの場を清める舞で、鈴をならしながら、ゆったりと穏やかに舞われます。

【面について】面をつけない舞とつける舞はどちらが古いのですか。
神様に対して、心も顔もみせて舞う姿が自然だと考えられますね。何もつけない素面の舞の方が古いと思います。面をつけて舞う面舞が出てくると、次第に興味を集め、様々な面が登場してきます。
神格化された面は人々の心をひきつけ、表情や動作により、想像の世界を広げます。
ところで、穂北神楽に残る古い老女面は文亀二(一五〇二)年の墨書があり、およそ五百年前の作で、県内でも古い面です。尉という翁の能面もあり、手名槌(てなづち)、足名槌(あしなづち)と呼ばれています。中世の頃伊東氏は京都の文化を好んだということもあり、そんな影響もあるのでしょうか。
鬼神・荒神等、神威・神格の面は怖そうな感じがします。反対に、ほっかり、面白いなど表情豊かな面などもあります。制作時に、意味を考え、或いは番付に位置づけするなど想像をふくらませながら、作り上げてきた先祖の苦心した姿を想像することもできそうです。
使用されなくなった古い面は、捨てないで大事に保管しておいてください。どこかに墨で書かれた文字が書かれていることがあり、貴重です。保存会に残された神楽面の種類や記された年代や場所を調べていくと、神楽の成立をさぐるヒントにもなるのです。

神代神楽【鬼神】

神代(かみよ)神楽については、西都市以外からお見えの方は、あまりご存じないかもしれませんが、多くの方に知っていただきたい神楽ですね。少し紹介をいたします。
かみよ神楽は神代(じんだい)神楽と同じく、祭りに奉納される里神楽のことです。
江戸時代以降、天地開闢(かいびゃく)から神武天皇以前迄の神様の故事・神話伝承を舞にとり入れたものです。日本武尊や八岐大蛇など各地で舞に取り入れられました。その中には、国の重要無形民俗文化財に指定されているものもあります。
西都市妻町のかみよ神楽は、ほぼ百年の歴史を持っています。昭和二十五年、古代衣装の行列に身を包み、西都原の松の所を歩いている行列の写真が残されています。
その起こりは、昭和初期に妻地区の町衆が中心となり、妻神社に奉仕する互親組を母体にして結成されたものです。明治から大正時代の繁栄を受けて、妻の町の誇りとなるものをと考えた末、御陵墓や神話伝承の残る西都の歴史を広く知っていただき、顕彰したいとして、サルタヒコ、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、イワナガヒメ、オトコガミを登場人物とし、舞を構成しました。
なお、神楽の舞は、石貫の広場でも舞われています。。ここは、コノハナサクヤヒメと鬼との結婚を、「一夜で窟屋を築いたら許す」と約束した父のオオヤマツミノミコトが、鬼の窟から一個の大岩をぬいて遠くへ投げ、結婚を阻止してニニギノミコトとの婚約ができたというお話も伝わっています。抜き取った石を投げ捨てた所が石貫という訳です。
さあ、どんな舞でしょうか。楽しみですね

【採り物についての解説】
ゆったりとして、願いが届くような舞でしたね。
ところで、手には何を持って舞っていましたか。サルタヒコが薙刀を持って舞っていました。舞う人は、いろいろなものを手にして舞います。面をつけて舞う時には、鬼神棒や杖・錫・鉾などや榊・御幣・鈴・扇、弓矢・刀・劔なども持って舞います。それらは、神威、潔斎・呪力などを感じさせるものです。例えば、榊に麻布をつけたり、五色の色紙をつけます。色の違いは、木火土金水の神を表し、神への鎮めとするものです。これらの採りものは、舞いつつ神との交信を図る、神を招く依り代としての意味があります。
採り物としての意味を考えると、面や衣装にも、舞の意味や神の雰囲気を想像させる大事な役割があると考えることもできそうです。

高屋神楽【一人剣の舞】

高屋神楽は西都市のおよそ南半分、高屋・鹿野田・都於郡・山田・三財・三納の一部を含む広い範囲を有します。中世伊東氏は日向四十八城を支配下におき、全盛を築きました。伊東マンショが活躍したのもその時代ですね。都於郡には武家屋敷もありました。
江戸時代、島津藩統治の時代には、都於郡は佐土原三町の一つとして栄えました。島津氏開祖の菩提寺である大安寺には、伊藤氏・島津氏双方の家臣の墓が大事に守られています。
江戸時代から明治時代の初め迄、都於郡にある黒貫寺の力は大きく、大神神楽の費用を負担してきたとされ、高屋神楽の保存に大きな影響を残しました。  
現在は、六地区十二社が神楽保存に努め、春の藤田神社をはじめ、秋の鹿野田・高屋・霧島・山田・平郡等の神社で日神楽(昼の神楽)が奉納されます。
「一人剣(いちにんつるぎ)の舞」は、刀をとって舞う魔祓いの舞です。動きの激しい舞で肩にかけたり、回転させたり回したりして、身を危険にさらして刀を様々に回して舞います、飛んだり、方向を変えたりする躍動感あふれる舞で、若い人でないと舞えないほど体力を必要とします。
ひたすらに力強く舞い、神に通じると感じさせるような舞です。

【刀の舞についての解説】
真剣な舞で汗が流れるほどの動きがありましたね。ところで、刀をなぜ舞にもちいるのでしょうね。私たちの日常には、切って捨てたい、なくしたい、一刀のもとに或いは乱舞して切り裂きたいと思うことがあります。刀による奉納舞には、一人、二人、四人、
一二人などの舞があります。昔は真剣で、観客を前にして跳んだり、転んだり、回転し、入れ替わったりして、怖さと驚きで手に汗にぎり、危険と緊張がありました。観客よりも舞手の方に一層の真剣さがありました。そこには次第に舞と祈りを高め、願いを成就させたいという姿がありました。吐く息の白さの中に、覚悟して舞う心も伝わり、応援のかけ声も出るほどでした。葉を口にはさむ・印を結ぶ・切るの所作や、舞の激しさには、修験の作法や呪文などの影響が感じ取れ、非日常な動きと舞に、人々は切実な願いの成就を期待するのです。
 

尾八重神楽【地割】

尾八重地区には、古い椿の大木の群生があります。成長の遅い椿の存在は、集落の古さを示しています。九百年前の開祖壱岐宇多守は、祖先神を祀り、この場に神楽伝習所を設けたとされています。
神楽は、修験色の強い舞が多く、シシバ祭りの猟祈願供養など古い習俗を残しています。
先年総合博物館での公演を見学した方が、「こんなすばらしい神楽が県内に残されていることに感動した。機会があったら、ぜひ地元に行ってみたい」という感想記事を新聞に寄せられていました。
地元の神楽の場で聞く感想も、「やっぱり尾八重の神楽はいいなあ」という声があり、活気も雰囲気も変わらないなあと感じました。
故郷や神楽へのなつかしさは益々高まるものがあります。人口がぐんと減少した村であるのに この三〇年、昔と変わらぬ盛大さで毎年神楽は行われてきました。この原動力は、何によるものか、明日、聞いてみることにいたしましょう。
地割は、鈴と太刀を持つ二人舞で、神様から神屋を借り受け、神を鎮める舞であります。
結界を定め、土地を区切る意味があります。舞いながら歌い、大地を踏み、ヘンベやカラス飛びをし、天中地、東西南北中央の五方を割り、舞い納めます。 

【祭場についての解説】
尾八重神楽は、御神庭を小学校あとに建てるんですね。そうなんです。神社と学校が隣接していて、とても広い運動場があります。向かいの山からこうこうと光がさしてとても美しいんです。ここに御神庭を建てます。八メートルほどの竹の頂上に、円形に丸めた柴の束を置き、一番上に数本の黄色の三光幣、その下に数十本の御幣を刺した (しめ)が立てられます。その下から何本もの縄が御神屋に張られ、周囲にはザンゼツと呼ぶ切り紙がさげられます。神聖な御神庭の完成です。正面には地蔵岳があり、みえざる神はここから舞い降り、正面のしめに降臨します。御神庭の中心には闢開を吊るします。
このような風景に接した時、人々は祖先のことを思い浮かべるのでしょう。
みごとな御神庭は降臨の舞台なのです。暗くなる頃、神楽が始まります。集落のはるか下の方には千二百年を越すかという一本杉の大木が立ち、暗闇に浮かぶ神楽場の明かりを見守っています。
夜空の星を見ながら神楽は進行し、故郷のよさに浸り、寒さにこごえながら知人や友人と語る姿が見られます。
神楽は、祖先神との出会いであり、なつかしい人々と出会う場であると、尾八重の人々は語ります。夜を通して眠気をこらえながらも、神楽をみる楽しみが忘れられません。
祭りの前の道普請は出ぼしで行い、御幣切りや御神屋作りなどの準備は、一週間前から地元の人々や地元出身の有志の人々など、故郷を思う多くの人々の支え、協力を得て故郷を守る神楽が催行されるのです。

銀鏡神楽【荘巖(しょうぐん)・柴荒神・悌】

銀鏡神楽もよく知られた神楽ですね。そうですね。県内では最初の国指定神楽ですね。
全国的にもよく知られ、調査団や研究者がたくさん訪れています。近年、地元銀鏡の方が執筆刊行された「銀鏡神楽―日向山地の生活誌―」は貴重な書です。
銀鏡神社は龍房山を御神体とし、一帯は山岳信仰の場を有し、修験の影響の深い土地です。
象徴的なのは、古式を残す神迎えと神送りの神事や狩猟習俗を番付に織り込んだシシトギリがあります。祭りの日は一切変更せず、一週間もかけて祭りを行います。
宵(よど)祭りは、神楽当日のしめ立て、夕刻の面様迎え、安置、座付と呼ぶ神楽執行に携わる人々のみが参加する食事、その中での座奉行による儀礼に則った進行など、作法や順序には心を配り、伝統を守る心が根付いています。
初めに舞う荘巖は、弓将軍ともいわれ、鈴と弓矢を持ち、天照大神の御田を荒らす須佐之男命を二神で守る舞です。躍動感があり、勇壮に舞われます。
次の演目、柴荒神は宇宙の根本を司る神で、全てを自らの支配下においています。断りなく何かをすると怒ります。それで、はらかき荒神とも呼ばれます。神官である悌(てい)が問答のすえ荒神を鎮め、山の恵みをいただくのです。悌は、優美な舞をして終わります。
銀鏡では盆正月より神楽といわれるほど、神楽を大事にしています。様々な神が登場する神楽は故郷の楽しみであり、神楽にかける集落の人々の意気込みが強く感じられます。

【伝統を守ることについて】
銀鏡の人々は、集落の伝統を守り、しきたりを変えないことに誇りをもっています。。
日ごろの生活の中では、協同で仕事をすることも多く絆がしっかりとしています。四季の行事や祭りにおいては、協力して準備をし、御馳走を作って共に楽しむ場を大事にしてきました。自然の様子をよく見、山の恵みにも詳しく、神様からいただいた恵みと先祖の残した様々な宝に感謝し、生活のサイクルを大事に保ってきました。
周囲の山・水・木などすべてに神が宿るという自然崇拝の心が環境への畏敬につながっています。長老によって伝えられ、若い人との心の共有を図る中で、集落の結束が図られてきました。
元来神楽は、男性によって守られ、女性は預かり知らぬものとされてきました。
しかし銀鏡では、先の戦争の時代、男性が少なくなる状況があり、心配されたことがありました。大事なことは、女性に伝えておくことを内々の習慣として伝えてきた歴史があります。神楽も暮らしも、人が人に伝える大事な贈り物です。女性の方は自らの果たしている大きな役割についてはあまり語られませんが、集落の行事やしきたりは、集落の人々がすべて何らかの形でかかわり、力を合わせて守ってきたものです。その姿こそ大事な伝統であるといえます。
神楽奉納を、八万神の戒め、御霊鎮めとしての宝とし、神楽をこよなく愛する人々によって守られ大祭に訪れる内外の人や留学生も加わって毎年盛況の舞台が開催されています。
人々を惹きつける銀鏡神楽の魅力とは何か。様々な伝統の力を感じとってほしいと思います。

穂北神楽【繰り下し】

穂北神楽の繰り下ろし、これはどんな演目でしょうか。
繰下ろしは神様をお招きする舞で、場を清め、辺りを鎮める舞ともいわれます。
くりおろしは、鎮守と書き、後半に番付を位置づける時には、神送りの昇神・神鎮めとして舞われる所もあります。
県内における神様を迎える御神屋や注連の形には、様々な工夫がみられますが、穂北神楽の注連には、特別な心くばりのつくりがみられます。十数メートルの竹の頂上には三本の勧請幣を立て、柴の束に刺した二十数本の勧請幣が飾られます。三本の勧請幣の中間に扇を重ねて円盤状にしたものをつけます。円盤に張った紐の中央に袋を置き、その中に、米と塩とお金を一二枚(閏年は一三枚)を入れます。円盤の下の方には、昆布と麻と赤布と竹筒にいれたお神酒をさげます。その下にある祭壇には、本格的な供えがなされます。
神迎えのための神饌が二重になされ、神様への配慮がうかがえます。
舞は、注連から下した縄を、鈴を手にした四人でよったり解いたりして、動きを変化させながら舞います。相手との気配りを要する舞で、順々に流れるようにして舞います。
ケッケに始まり、はさみ舞、ひさし舞と続き、鈴を使った舞で終わります。
舞手は、地区出身の方で構成されています。当日に舞手を決める手割りがなされても、大丈夫と言われるほど、会員が多くの舞を習得しているとのことです。

【穂北神楽ゲストトーク】 
※お話の内容は記録していませんので、質問のみ記します。
〇怜人長の 黒木直史さんです。

神楽を守る元気な活動はどこからうまれるんですか。
神楽を支える地域の絆が強いと感じましたが、いかがですか。
下水流臼太鼓の行列の後を、登校中の小学生がついていく風景が印象的ですが、子どもたちにも神楽を指導しておられるんですね。

高屋神楽【大神神楽】

大神神楽は、伊勢神楽とも太太神楽ともいわれます。伊勢神宮に奉納する神楽のことで、その起源は神道辞典によると、慶長年間に遡るといわれます。
江戸時代には、黒貫寺が大神神楽の費用を賄ってきたとされています。
江戸時代の記録には、黒貫寺の山王、岩崎稲荷、潮大明神での神楽執行がみられます。
岩戸開きは、高千穂の天鈿女や手力雄・戸取の舞がよく知られますが、ここにはもう一つの岩戸開きの物語が残されています。それが大神神楽です。
大神神楽は太鼓破りともいわれます。岩戸を象徴する枠の正面に太鼓がつけられ、神々が集まり、神明を得たいと念じます。
方射・里人・稲荷山・陰陽の神が岩戸開きを願うが、神明今だ見えずと叶わず、神武が登場し、「神風や 五十鈴の川の宮柱 千としまでとぞ 祝いそめけん」と歌い、太鼓を破り、願いが成就します。一人舞で物語が神歌によって進行されます。
なお、高千穂の戸取と同じ戸開きの舞も、高屋神楽では後半に舞われます。
神歌も問答も記録が残されおり、新たな担い手による継承が望まれています。
神楽はどこから来たのか、大神神楽はそんな事を考えさせてくれる演目です。

【高屋神楽ゲストトーク】
※保存会長の川崎 功文さんです。
神楽を守る元気な活動はどこからうまれてくるんでしょう。
神楽を支える地域の絆が強いのは、何か理由があるんですか。
神歌や問答もしっかりと記録が残されているそうですね。

尾八重神楽【四人神崇(よったりかんすい)】

西都市から三十分、一ツ瀬川の北に広がる里です。尾八重には、斜面を切り開いた見事な水田と畑がひろがっています。また、切り立った崖のある修験の修行地もありました。土地を訪ねると、世間に知られていない信仰や暮らしの姿を見ることができます。山の中に、氏神様があります。また、先祖から受け継いだ石塔や供養地に、竹筒を切って供えをします。その数は百本(箇所)にもなります。山の上方から下を見ると、計算されたように昔の道が縦横に走り、その交錯する所に、樹齢千年を越えるかと思える杉の大木がそびえています。古い歴史を持つ集落であり、行事を大事にして守っています。
四人神崇は刀を持った四人舞で神を鎮め祀り、天中地、東西南北と中央の五方を切り開く舞です。重みのある真剣を使い、鍔に榊をはさみ、切っ先を下にしてギュッと握ります。
刀をひねり、逆さにすぐり、様々な刀さばきをみせ、勇壮に舞う姿には、天地を切り開く たくましい先祖の姿を思い起こさせます。舞の途中に、中王との問答があり、天神七代、地神五代の神が、木火土金水の神について述べるくだりがあります。
激しい舞に、明日の元気をいただけると思います。

【舞について】
尾八重神楽と銀鏡神楽は立地的には隣り合っている地域ですが、神楽も似ているんですか。修験を取り入れているという点では共通していると思われますが、似ているとは一概に言えない面がありますね。それは、神楽がそれぞれの集落で歴史を経る中で独自に作りあげられてきたものであり、それぞれのよさを蓄えてきたからです。
尾八重神楽は修験色が強いともいわれます。皆さんは、修験というとどんな姿を思い浮かべますか。白装束にときんをつけ、杖をもって山をかっぽし、大岩の上から逆さ吊りの姿など、日ごろからの修行の厳しさが想像されます。
修験者は、厳しい修行により験力を得、霊力や知識を蓄え、集落の生活にも深く影響を与えたといわれています。例えば、建家、祈願、病気の時の医者など様々なことで、人々の信頼を得てきたのです。
その姿は、多様な舞で印を切り、真剣を使い、時に刃先を持ち、激しく飛ぶ、回転の舞、動きの速い舞など躍動感ある舞が多くみられます。舞手の心には、修行で習った時の長老の表情や、目、腰、足、飛ぶなどの教えられた言葉が浮かびます。また、稽古や祭りの時に接した人々の心の温かさが、先祖の文化継承への自覚を深めてきました。
舞を繰り返しつつ次第に激しく強く舞うことで、心も体も陶酔の世界となり、神の心にふれるようになるのかもしれません。舞の途中にかかる神楽囃子も、なつかしいものがあります。神楽歌、祝詞、問答、どれも貴重な神楽の宝です。
切り開く舞によって、舞にも自信ができ、生きる力につながってくるのです。
どうぞ、四人舞の舞いぶりと刀さばきにご注目ください。

銀鏡神楽【白蓋(びゃっかい)鬼神】

暮らしを営む集落、その上には青く広い空があります。山々の間から見上げる世界には、壮大な天の神様の世界を思い浮かべることができます。
白蓋は白い天体の意味で、御神屋中央からさがるアマをさします。アマの中には、ものだねが入っている。種とは宇宙万物の種のことです。すべてのものが芽生え、花開いて発展していく、すばらしいものだねなんですね。これは、命の恵みかもしれません。 
白蓋は肩をはらず楽しむ演目で、ユーモラスな動作で白蓋(アマ)をつつき、何回も回りながらものだねが落ちてくるのを待ちます。
舞手の動きと表情は、何となく笑いを誘い、何かを期待させます。ものだねが降るとは、幸せが降ること。幸せが授かることです。
子孫繁栄、血統、物事の始まりなど様々に、人々の願いは広くたくさんですが、それに応える神様もおられるということです。。
あまほめとも呼ばれるこの舞は、天をほめたたえ、天の恵みに感謝する舞です。
身近にも、幸せをもたらす神様がいてほしい。そんなみえない神、みえない宝への期待、願いも聞こえてきそうです。

【稽古について】
ある時、銀鏡神楽の五〇年ほど前の舞をビデオで見たことがあります。ていねいに、ゆったりとして舞う、舞の正確さが心に残りました。現在の舞にもゆったりとして、一つ一つの動作、足の運び、早さなどそれらの舞がしっかりと受け継がれていると感じました。それは、稽古の時の心によるものではないかとも感じました。
銀鏡神楽の関係者にお聞きしたことを紹介します。
銀鏡神楽は、「原形をくずすな」といわれます。社家は舞継がなければならないことを信条に舞を続けることが大事であるといわれます。。昔から、祝子は十二株とされ、以前より減少してはいますが、祝子株を守りつつ新たな願祝子を加えて、一年一年を先祖の心として舞い継いできたのです。
基本の形は先輩と練習して、昔の形を引き継ぐのがよい。人と向き合い、時間をかけて、苦労と共に学ぶのがよいとされています。稽古においては、間違いをおかしいと正してくれる人をもっておくことが必要です。一人での思い込みは、ちょっとした間違いやその場限りの修正を誤って伝えることにもつながる心配があるからです。きちんと正してくれる人をもっておくことが原形を守ることになるのです。
柴荒神の舞は、地ずれ八寸で舞います。床から八寸ほどの高さに頭を下げ、腰をしっかりと据えてゆっくりと舞います。体力と技を必要とする舞です。荒く速い舞で、頭を振れば後ろに倒れそうになり、熟練の技が必要とされます。
綱荒神においても、跳び、歌いつつ舞う力を求められます。幸いに腰の安定や体力は、山のなりわいで、腰を据える・立ち上がるなどの作業により、足や太ももの筋肉が鍛えられ、それに耐える力ができています。
年をとると、舞のことで分かってくるものがあります。舞にかれた味が出てくるといわれます。幅広く経験を重ねてきて、ようやく大人(おせ)神楽が舞えるようになったといわれます。伝統を受け継ぐとは、このようなことをさすのでしょう。
銀鏡では、神楽は祖先から受け継いだ精神的支柱であり、神楽の場は御霊をなぐさめる場であると考えられています。ですから、舞は経験者の教えを念頭に、神を意識して舞う姿となり、稽古こそが伝統を受け継ぐ大事な機会であると考えられてきたのです。

神代(かみよ)神楽【将軍】

神代神楽、将軍の舞は妻神社の神楽番付をもとに作られ、舞いやすいように太鼓や笛も創作されました。
昭和二十五年に写された写真には、髪をみずらに結い、白の古代衣装に身を包んだ神代神楽の男神の一行が西都原の松の木の下を歩く姿が残っています。
県内には、宮崎市の名田にも神代神楽と呼ぶ神楽が残されていますが、内容は同じものとはいえません。
将軍は、男神が中心になって舞を展開します。古代衣装をまとい、弓矢を持って舞います。登場する神々や、持ち物・衣装などはその年々で考え、作り上げてきたものです。
その価値を紹介し、伝える機会の少ない神楽ですが、西都市民にはなじみになってきている感じがいたします。互親組のリーダーを中心に代々守り続けられてきた心と行動のうねりが、この神楽に託されています。
毎年春と秋の祭りに、御陵墓前でこの舞が披露され、西都の古墳と神話伝承が顕彰されてました。
神代神楽にかける先人の思いを大切に受け継ぎ、毎年着実に活動を続けられてきたその姿や、百年をまじかにした価値ある行動に敬意を表したいと思います。
 

【神代神楽ゲストトーク】
※神代神楽事務局長の 堀 康文(やすふみ)さんです。
神楽を通して社会貢献を継続されてきたお気持ちはいかがですか。
発足百年を前にして、古墳や神話等西都の誇りを伝える活動への思いは。
これからに向けての活動と継承について、どんなことを考えられますか。

尾八重神楽【お清】

 お清は、火伏の舞・竈清めの舞です。火災からのがれ、暮らしの安全、繁栄を願う舞です。お清とは竈を清めるとか、竈を守る嫁に「早く起きよ」という意味も含ませています。
ある神様が一番きれいにしておく場所は、カマドだといわれたという話があります。
暮らしの中では、きれいにしておく所がたくさんあります。
水場、屋敷回り、山林の中の神社など様々です。
火は日に通じ、霊(みたま)、幣(みてぐら)に通じ、深い意味を有します。火災を免れ、魔払いや罪・穢れを清浄にするともいわれます。
お清は二人舞で、手に鈴と柴をもち、竈を清める舞です。
舞の途中で神屋を出て、調理場の竈に行き、火伏の口上を唱えます。賄いの人からふるまいのお神酒や土地に育つイセドイモ(里芋)料理の接待を受け、再び神屋に戻り火伏の所作を行います。

【様々な神様】
神楽には様々な神様が登場します。皆さんはどんな神様が思い浮かびますか。
日ごろの暮らしで助けが欲しいと願う時、みえない神様に手を合わせると浮かんでくる神様は、人によって様々でしょう。身近な御利益、個人の願いや求めに応ずるというより、広く大きな心で見守ってくださる存在を人々は描いているのかも知れません。
故郷に立った時、周囲の山や谷、集落や家の周りにもみえない神が存在すると感じる人もいると思います。
例えば尾八重の土地には、祖先神である壱岐宇多守、神社には祭神、湯之片・尾八重・岩井谷・打越・大椎葉・瓢箪淵等々の集落には土地の神、山の神や狩猟神、宿神、稲荷、屋敷神、氏神など数えきれないほどの神様が想像されます。人の住む場所に願いを重ねると、浮かびあがる神様があるのです。
広く県内をみると、神楽に登場する荒神には、柴・綱・衣(御)笠荒神があり、鬼神には鬼神・四方鬼神・七鬼神・稲荷鬼神・花鬼神・笠取鬼神など種類も多様です。山に田畑に、鹿倉神社に祈りを込める日々、神楽の日が近づくと、人々は太鼓の音に誘われ、笛の音に連れられて神様も訪れてくることを信じてその日を迎えるのです。
人々は生きていく上で力となる神様の存在を思い浮かべ、毎年の神楽を集落の人々と共に楽しみに迎えます。
神様の登場を願う人々の心と訪れる神々とは、ひょっとしたら鏡のごとく照らしあっているのかも知れません。

穂北神楽【綱切】

穂北神楽での一番人気は、綱切だそうですね。
そうです。真夜中に奉納される綱切、これは穂北神楽を代表する神楽です。
神社の森に寒さが増し、冷たい風が吹く頃、待望の舞に人々の眼が輝きを増します。
綱切とは、皆さんもよくご存知のお話です。
スサノオノミコトが八岐大蛇を退治する話です。
「そもそもスサノオノミコトとは我がことなり。八尾八谷にはじめたる八岐大蛇、スサノオノミコトすたすたせっかいするものなーり」という唱え言葉があります。
この舞は、世の中にある魔物・悪霊・災いを断ち切り、人々の心配や悩みを蛇と共に打ち祓うようにと願って舞われます。
荒々しい綱荒神の真剣な大太刀使いで、力強く気合を込めて舞う一人舞です。
体力もいります。若い力で舞います。  
一時間近くの舞を十分にお楽しみください。 

【切られた藁の処理】
スサノオノミコトが一刀のもとに八岐大蛇を退治し、邪念や邪気が祓われました。
この邪気は藁に残ったのでしょうか。それとも、切られて災いの元がなくなったのでしょうか。
このあと、切られた藁はどう処理されるのでしょうか。
それによって、藁をどう考えるかが分かるも知れませんね。
銀鏡神楽では、切り口や流れたと思われる血を見せないようにして、神社内の荒神森へ落とします。これは、藁蛇に災いが留まっていると考えて、誰にも触らせないようにしていると思われます。あくまでも、神の一身とみられていると考えられます。一方、穂北神楽では、この藁を牛に食べさせると病気にならないといわれます。
また高屋神楽では、切った藁をめがけて、我先にと観客が求めに来ます。ハウスや牛小屋、畑等に撒くと豊作だといわれます。神楽による恩恵を集落に返すことが考えられているようです。
悪い気を吞んでいる蛇と考えて捨てるか、切られて邪がなくなり、恩恵としていただく物と考えるか。
綱に込められた思いにも、このような違いがある事に神楽伝播の歴史の違いを感じます。

高屋神楽【戸開の舞】

本日の最後は、高屋神楽に登場いただきます。
秋の高屋神楽は日神楽で、地域の人々が多く訪れる昔なつかしい神楽です。
鹿野田神社では二日間祭りがあり、一日目はお祭りで相撲があり出店もたちます。二日目に神楽が舞われれます。
舞場は高い場所にあり、そこからは鳥居をくぐって田んぼの道を歩いてくる人々の行列が見られます。コスモスが風にゆれ、人々のざわめく声がして、なごやかな雰囲気の中で神楽が舞われます。
藤田神社の春神楽も、あったたかな雰囲気の中で神楽が舞われます。
高屋神楽は、ここ数年間は妻神社にも奉納神楽を続けている伝統のある神楽です。
戸開の舞は、天の岩戸の戸開きを成就する舞です。
夜神楽ではこの頃には朝日がようやく出て、世の明るい時代を迎える喜びに浸りますが、ここでは夕方頃までの番付で、このあと神主が注連縄を切り、諸神放楽して神送りと続きます。
神楽は、神迎え、神と人との舞遊び、神送りまでの流れで構成されています。
本日の最後に神送りの神事を行っていただき、神楽成就といたします。

まとめ

西都市内に残る五つの神楽、いかがでしたか。
神楽三十三番には、神を迎える様々な形があり、神事性の強い神楽や楽しい祭りの雰囲気を感じる神楽があり、神と人とがともに舞遊び、神送りで終わるというストーリーがありましたね。本日は神事性の強い神楽に焦点をあてました。
振り返ると、神楽には、その土地に生きる人々の暮らしへの願いと祈りが反映され、また、近世の藩支配による影響や近代の発展する町での結成など、歴史的な要素も入っていました。
長い時代を経て、西都市の各地区の方々や保存会の皆様がそれぞれの地区の先祖からの教えを大事に継承され、独自性のある価値ある神楽として残されていることを何よりも大きな誇りとしたいと感じました。
明日もすばらしい神楽の祭典を紹介いたします。故郷の大事な文化遺産、神楽を今後も大事に見守ってほしいと思います。
保存会の皆様そして会場の皆様、本当にお疲れ様でした。有難うございました。

<第二日 九月十九日(日)【県内の神楽】>

宮崎県内には海岸・山・平野に二百余りの神楽が残されています。地域的にみると、延岡市から門川町付近、高千穂町・日之影町・五ヶ瀬町の西臼杵郡、県北西部、椎葉村、諸塚村・美郷町の東臼杵郡、日向市、西米良村から西都市、児湯郡、宮崎市を中心とする平野部、日南市・串間地域、都城市・高原町や小林市等県南西部等、ほぼ県内に分布しています。地勢的には、山間部・平野部・海岸部に広がり、夜神楽・半夜神楽・日(昼)神楽等土地特有の神楽が残されています。季節的には、春には平野部に日神楽、山間部に秋から冬にかけて夜神楽が多くみられます。
本日は、県内から延岡市の大峡神楽、日南市の山宮神楽、高原町の祓川神楽にお越しいただき、特色ある神楽を御披露いただきます。
なお、誠に残念なことですが、広島県の今吉田神楽、兵庫県の北区神楽は、コロナ関係や豪雨による事情のため、出演ができなくなりました。
本日は宮崎県内の神楽と西都市内の神楽との比較を楽しむ機会としてほしいと思います。

大峡(おおかい)神楽【鎮守・幣神髄神楽・幣の手舞・三番荒神】

延岡市和田越えの北部にある大峡地区は、水田が広がる山の麓にあります。集落の神社と地域の人々の絆がよく残る地区です。
大峡神楽は、延岡神楽に属します。延岡神楽の歴史は古く、今山八幡宮の記録に、天永元(一一一〇)年に神楽の記録が残されています。延岡藩内には、九〇余りの神社があり、藩に神楽奉行を置いたとも伝えられ、御本所神楽とも呼ばれます。
大峡神楽は、寛政四(一七九二)年、夜神楽執行の記録があります。また、大正時代に延岡を訪れた鳥居龍蔵氏に荒神神楽を舞って見せた写真が残されており、歴史も感じることができます。
延岡神楽の再興に努力した岩切隆氏の元に、大峡の若者が毎週二回通って指導を受け、四年間の苦労の末舞を習得したことが、現在継承の原動力になっているということです。
大峡神楽は、時の流れを感じさせないようなゆるやかな、落ち着いた舞で、なつかしさを感じさせる太鼓・笛の音が魅力です。
集落の人々の大きな協力によって神楽が開催される、大事な神楽の里が残っています。
本日は、基本的な舞三番を舞っていただきます。神庭を清める鎮守、産土の神の恵みに感謝し、八百万の神を迎える喜びの舞、猿田彦が歓びのうちに迎えられます。三番荒神は魔を祓い、幸せを授ける舞です。
点に静、丸に動を意識して舞うことを重視し、直線的な動きと廻り戻しを特色とするという説明がなされています。
終了後に、神楽に用いた採り物など一切を縁起物としてお持ち帰りいただきますので、舞が終わったらどうぞ前へ来られてお受け取りください。

【大峡神楽ゲストトーク】
※大峡神楽保存会長の黒木弘一さんです。
御本所神楽というのは、どんな神楽ですか。
復活された時のご努力と思い出を聞かせてください。
若い人がやる気を出す時とは、どんな時でしょうか。
子供神楽の育成に力を入れておられるのはどんな理由からですか。

銀鏡神楽【清山(きよやま)】

 清山は十二月十四日の第一番の舞です。前日に、全ての作業を 終え、注連立てだけを残して、内神屋で一番の星神楽が舞われます。
銀鏡神楽宵宮の始まりは、厳かな雰囲気の中にぴりっとした緊張感が漂って始まります。
事の始まりには、身も心も清めて臨みます。
すべてがととのい、心改まって舞殿、御神屋へ進み、今年一年の感謝の締めの祭礼に入るのです。
この舞は、舞手自らを清め、神の降臨する外神屋を清め、神楽三十三番のよき舞の奉納を祈る舞です。
ゆったりとしてしなやかに舞い、心も清くなる感じがします。
白衣白袴が目にしみ、鈴と御幣を持って舞う二人舞です。
経験豊かな人でしか舞うことができない舞だそうです。
落ち着いた神楽祭場の雰囲気が伝わり、さあ始まるぞという期待感をもって神楽が始まるのです。

【銀鏡神楽ゲストトーク】
※保存会長の濱砂武久さんです。
一週間も続けて大祭ができるには、まとまりというだけではない何かがあると感じられるのですが。
十年前からの銀鏡の雰囲気が、「発展する神楽の村」へと加速したのは、どんな理由があったのですか。
東米良創生会について教えてください。

山宮神楽【ちょくめん・たいつり舞】

日南市内では現在、三〇か所ほどで神楽が舞われています。東には青々とした海原が広がり、南西はるかには深々とした森林のある霧島の連山があります。この地方一帯には、海と山を背景にした鵜戸信仰と霧島信仰が色濃く残っています。
山宮神社は、日南市北郷町郷之原にあります。東の方には鵜戸神宮があり、西には遠く島が横たわり、飫肥街道が前を抜けています。神社には延宝三(一六七五)年の神道裁許状や、安政年間(一八五四~)太太神楽の仕立書が残されています。
昔の番付には鉾舞、綱荒神、伊勢神楽、戸開き等も残されています。農村地帯でもあり、海・山・里、三拍子の番付を備えています。
年間には、二月の春神楽、年九回の夜神楽公開(月の第一土曜日)、それに三月の花立公園の桜吹雪の下での神楽公開など、大変意欲的な活動を続けておられます。
保存会は、十代から四十代までの若い舞手とベテランの方による構成で、全員が舞も太鼓もできると意気込み、地域に残る大切な伝統文化を残したいと気合の入った稽古を続けてきています。
本日は最初に、たいつり(鯛釣り)を披露していただきます。
海を前にしたこの地方ならではの、大事な舞でもあります。
鵜戸舞と呼ばれ、釣り竿と塩満玉を持って舞い、海幸山幸のお話が神歌で歌われる大漁祈願の舞です。
神歌がとてもよくお話を伝えているので、よくお聞きください。
もう一番は、人気の演目ちょくめんです。思わずくすっと笑いの出るお面と恰好、こんな楽しい舞がある事を県南部の方はよくご存じです。子孫繁栄、夫婦和合を願う舞で、すりばちと器を持って舞います。
途中で観客席にも繰り出しますが、ヘグロをつけてもらうと一年間健康で過ごせるそうですよ。
笑いと喜びをもたらすちょくめんの登場です。

【山宮神楽ゲストトーク】
※山宮神楽保存会会長 松田治生(はるお)さんです。
平成以降、保存会の活動を新たなものにと加速させた理由はどんなことですか。
若い方との練習では、長時間一気になされるとのことですが、反応はいかがですか。
花立神楽を開催され始めた、その思いを教えてください。

神代神楽【鬼神・将軍】

神代(かみよ)神楽の話は神代の時代ですが、心は現代につながるものです。
発足は明治から大正時代にかけての妻の町を発展させた商人の力と心意気が基礎となっているということを、昨日説明いたしました。
この舞は、神楽伝承の地を誇りとして神楽舞としたものです。
神楽団体に舞の基本の教えを請い、祈りの精神を込めて継承してきました。
神代神楽は御陵墓、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメを顕彰するという明確な目的を持ち、町の発展に寄与してきました。
結成百年を前にして、先人の思いを受け継ぎ、黙々と活動を継承されてきた姿が、今回県内外の多くの人々に知られたことはとてもよかったです。
また、地元の人や多くの人々に知っていただくことは、保存会にとっても元気の元になります。
近年は、イベントや結婚式にも依頼があるそうです。
全国には、人に知られてよい様々な神楽があることを紹介させていただきました。

【文化を伝える神楽】
西都市の神楽や本日出演の県内神楽は、神事性が強く、地域の人々の祈願や喜び・感謝を大事にした奉納神楽であると思います。
広く言えば、九州の神楽もその要素が強いように思います。
全国には、日ごろ私たちが目にすることの少ない神楽がありますが、その一つについて紹介いたします。本日出演できなかった広島市の芸北神楽 今吉田神楽を見ていただきたかったのですが、出演できなくなり誠に残念です。
この神楽は、情報によりますと、戦前からあったのが旧舞、戦後に登場し急成長したのが新舞とされ、今吉田は新舞に属します。神楽団と称する神楽集団が県内に一〇〇以上もあり、衣装も豪華で色も派手です。八岐大蛇は金色の豪華な大蛇でもくもく雲の中に登場します。大蜘蛛はみごとな白い糸をはき、素早く仮面を付け替える妙技など、人々の目を引き付け、いかに楽しませるかに力を注ぎます。
日々新しく変わることが、観客を楽しませ、舞を面白くさせるのです。
広島県内では、競演大会が企画され、旧舞と新舞のチャンピオンを決める大会もあります。会場に三千人も収容してグランプリを競います。
このように、見る人の事を考え、変わる事を基本にしている神楽もあるのです。宮崎県や西都市の神楽とは趣を異にするこのような神楽も大事な文化として継承され、新たな文化として人々の注目を集め、発展しているのです。

穂北神楽 【磐石(ばんぜき)】

夜が更けて、少し眠気がきそうな頃に登場するのが面白い神楽です。
一度神楽を御覧になった方は、神楽は楽しい祭りだと思われる方が多い。静かな雰囲気から一気に、大いに喜び、大いに笑い、肩の力がぬけるような楽しい場に変わるからでしょう。酒も入り、ちょっとしたものをいただきながら、あたりにどよめきが起こり、元気が出て眠気も吹き飛びます。
盤石は子孫繁栄、五穀豊穣を願っての舞です。
男女二神が登場し、意味ありげな持ち物で時々前の方から大事なものを出し、子孫繁栄のかまけ技を演じます。
なかなかの元気な舞手で、遠慮なく観客席へ踏み込みますので、皆さんどうぞ一緒になって笑い興じてください。
舞手の元気にもなりますので、いろいろ声をかけてみてください。

【盤石と田の神舞】
大変にぎやかな場となり、楽しい神楽でした。
男性の持ち物は椀と杓子、スリコギなどでした。若い方でないと舞えないという意味もお分かりいただけましたね。
盤石と同じような内容の番付が、県内には多くあります。それは子孫繁栄と五穀豊穣が何よりも切実な願いだからです。
盤石は西都市と児湯郡に、へやの神は、西米良・西都、直舞は日南地方、高千穂には御神体、椎葉には年の神、高原には田の神、臣下などがあります。
名前は異なりますが、神楽に込められた思いの共通する演目がみられます。それらをまとめて考えると、これは田の神系の舞ではないかと、最近國學院大學の小川直之先生が 発表されています。 
この神楽は、どこから入って来たのでしょうか。そして、どんな思いで集落に取り入れられたのでしょうか。神楽の伝播交流にも興味深いものを感じます。
いずれにしても、このどっと座をわかせる盤石が終わると、ほうっというため息と安堵感が伝わり、皆さんの顔が一段とよい笑顔になりますね。

穂北神楽 【磐石】

夜が更けて、少し眠気がきそうな頃に登場するのが面白い神楽です。
一度神楽を御覧になった方は、神楽は楽しい祭りだと思われる方が多い。静かな雰囲気から一気に、大いに喜び、大いに笑い、肩の力がぬけるような楽しい場に変わるからでしょう。酒も入り、ちょっとしたものをいただきながら、あたりにどよめきが起こり、元気が出て眠気も吹き飛びます。
盤石は子孫繁栄、五穀豊穣を願っての舞です。男女二神が登場し、意味ありげな持ち物で時々前の方から大事なものを出し、子孫繁栄のかまけ技を演じます。
なかなかの元気な舞手で遠慮なく観客席へ踏み込みますので、皆さんどうぞ一緒になって笑い興じてください。舞手の元気にもなりますので、いろいろ声をかけてみてください。

祓川神楽【十二人剣(つるぎ)】

高原町には祓川神楽と狭野神楽があります。
神楽の事を神舞(かんめ)といいます。
祓川神楽には正徳五(一七一五)年、安永二(一七七三)年、嘉永六(一八五三)年などの貴重な神歌本が残されています。
高原町では「霧島おたこが神様で」と云われ、高千穂の峰から御池を含む霧島の深い森の中にあり、およそ千年前比叡山円暦寺の性空上人の修行地、霧島修験の修行地として、神楽の素地がはぐくまれたといわれます。
その昔、祓川は宿場町であり、国分街道も抜けて関所もあり、宿もありました。社家七家が決められ、神楽を守ってきました。
「今年もかんごつが楽しみ」「かんごつやはらなあ」とあいさつが交わされ、多くの人で賑わってきました。祓川では、神楽が来ると寒波がくるといわれてきました。冷え込むだけに、二五度の焼酎がよく飲まれました。舞の途中に、「ハンヤー」という男性のかけ声がよく通り、寒さの中で白い息が見えました。
霧島修験の地と伝えられ、採り物には刀、薙刀、鈴、鉾、錫杖などがあります。特に刀の舞が多く、子供の舞う剱(つるぎ)を含めて五番あります。本日はその中でも最も舞手の多い十二人剣をご披露いただきます。
支度部屋でお祓いを受け、真剣を清めた舞手が、白衣白袴、赤襷に脚絆がけで、刀、鈴を手に、「霧島の峯より奥の霧晴れて現れ出ずるその峰の守」の道歌を歌いながら入って来ます。
真剣の舞は危険を伴います。片手、両手、回転、交差などがあり、「つっ先はつっつっつっと切れ。」「交わる時は高くし、横に動く時は左の切っ先を指で隠す。」「肩を回すようにして回転させる」等々、危険をおかして願いの成就を祈りつつ舞います。
十二人剣は、天神七代、地神五代、それこそ国内の諸神を集めるというスケールの大きさです。御講屋の大きさも六m×六mと他所より広く、高さもあり、迫力ある勇壮な舞で見る人を圧倒します。
霧島の深い森と厳しい修行をした修験者、凍える寒さの冬の祓川を想像しながら、十二人剣をご堪能ください。

【祓川神楽ゲストトーク】
※祓川神楽保存会会長の西川嘉宏(よしひろ)さんです。
国指定の報告書作成等で歴史資料を記録されましたが、その後にどんな良いことがありましたか。
浜下りに女性が加わる伝統がありますが、全体の流れや、舞、御講屋作りなどを守るために努力していることや苦労を教えてください。

高屋神楽【岩通し】

岩通しには、岩の間を下る急流の意味があります。
三人の舞手が刀や面棒を持ち、岩の下を潜る姿を舞に表現したものです。
刀は水の神に通じ、不幸や災いを祓うといわれます。
県内において同じような演目をみてみますと、新田神楽・生目神楽・船引神楽・広原神楽・島之内神楽等宮崎平野に多く、高千穂神楽や日之影神楽では岩くぐりと呼ばれます。
また、刀を用いる演目には、銀鏡神楽・尾八重神楽・西米良神楽では、四人舞によるかんし、かんすいと呼ばれる
激しい舞があります。
激しい動きを伴う太刀舞で、方向を変えたり、肩の先をつかんで輪を作り、調子を揃えて順々にくぐります。
舞の難しさを感じて、舞手の緊張感が伝わり、思わずかけ声をかけたり、拍手が起こる場面もあります。
感動された時は遠慮なく拍手をお送りください。
春の昼神楽で、豊かな水を得て豊作を願う舞、冬の夜神楽で、寒さの中で渾身の力を込めて祈る舞など、土地によって水につながる様々な思いが、この刀の舞には込められています。
三人の舞手による、息のあった舞を御覧ください。

三人の舞手によるリズム感のある、よくそろった舞でしたね。
この二年間は、コロナの影響で練習も思うように出来なかったことと思います。
舞に通じたベテランの方に御登場いただきました。
有難うございました。

【尾八重神楽ゲストトーク】
※尾八重神社 中武貞夫(さだお)宮司です。
集落の人口が減っても、毎年神楽に集まる人々の数はむしろ増えてきていますが、これはどんなことが考えられますか。
故郷の神楽を守るために、西都市や尾八重地区の外に住む人々が努力していることはどんなことですか。
口伝は昔からの伝統ですが、それを公開して残そうと思われたのはどうしてでしょうか。

尾八重神楽【百弐拾番(ひゃくにじゅうばん)】

昔は神聖な御神屋には女性は入ることは許されず、社人・伶人しか入ることができませんでした。尾八重神楽では、願かけ・願ほどきと百弐拾番の時だけは入ることができました。
神楽はみんなで喜び楽しむものと考え、最後には御神屋に入ってもらい、共に喜び合う場としたいという思いが叶えられたのではないかとも思われます。
それにしても、百弐拾番とは面白い名前ですね。これは子丑寅・・の十二支と、人間の煩悩の数百八を足した数だそうです。
厄年の人をまず優先し、次に会場からの飛び入りの参加者も御神屋に上がり、衣装をつけてもらって、先導の祝子に導かれて舞います。
舞の盛り上がりと共に、一年への感謝と喜びの思いが溢れ、最後は襷でひとまとめに結ばれ一体感を共有する場となります。
白々と夜が明けて光がさし、神楽成就を喜び、明日の元気をいただく舞であります。本日最後の舞、百弐拾番で、西都「まっぽす」神楽のフィナーレといたします。

終わりに

県内の神楽を、山地、平野、海岸部の地勢や県北部、西都市、県南の海岸と山間部についてみてきました。いかがでございましたか。それぞれに特徴のある神楽で、皆さん方も様々な感想をお持ちのことでしょう。
御覧いただきましたそれぞれの神楽には、集落のもつ暮らしの蓄積や歴史的な背景が色濃く反映されていました。一年一年の神楽継承には、多くの先人の努力や教えがあり、貴重な文化遺産として受け継がれています。
西都市内に残る神楽も、同じ影響下にあり、山間地と平野部の要素を深く残し、大事に継承されてきました。
県内からお越しいただきました三神楽保存会につきましても、その土地の特色をよく残すものであり、さらに価値あるものとしての理解や見方が広がってくるものと考えます。
これからも、維持・発展の努力が必要とされますが、保存会の方々の思いを大切にして継承されていくことを願っています。
それを支えるのは神楽に関心をもち、地元に足を運ぶ多くの人々の思いであります。

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