鬼八伝説資料

渡辺一弘

以下に手持ちの鬼八伝説に関する資料を紹介する。出典については随時追記していく。

○伝承地 宮崎県西臼杵郡高千穂町
 三田井町の西端道路の右なる低地に鬼八塚という石碑あり。高三尺、幅一尺五寸、鬼八塚の文字及側面に文久元年七月と刻せり。往時地域広大なりしもの漸次開掘現今数坪を残せるのみ。鬼八又は鬼八法師とは、後世仏徒の命ずる所にして実の名走建といふ。蓋し健脚疾走能く山川を登渉するをいふものにして、上古此地方に於ける異族の巨魁なり。押方村瀬の里附近に拠りて良民を害す。
 谷は八つ、峰は九つ、戸は一つ、鬼の窟はあらゝきの里御毛沼命兵を卒ゐて之れを誅伐し給ふ。伝へ言ふ。初め寸断せる屍体一夜にして接合せり.依て更に其の断片を此の地及杷後の各地に埋置せりと.蓋し照合の拠所広く両国に跨りしを語るものと見るべし。後世里民其の霊を祭り、鬼八申霜宮と称して、早霜秋穫を害せざらむ事を祈る。維新前猪祭と称するものあり.野猪一頭附添三十二人、特に岩井川より来て碑前に供し、更に其肉片を斎し帰り、自村に於て祭儀を挙ぐるを例としたりといふ。(『宮崎県史蹟調査』第三輯)

○西臼杵郡高千穂町・・・鬼八塚…熊本街道ノ西北例ニアリ其碣高四尺余正面二鬼八塚ノ三字ヲ鐫シ右側二荒振ノ三字ヲ麓ス蓋シ近古土人ノ新二創建セシ所卜見ユ (『日向地誌』)

○西臼杵郡高千穂町・・・二上峰の北麓に乳が窟(又チチガ岩屋)がある.皇大神の誕生地とも鬼八の住窟とも称している.(『宮崎県史蹟調査』第三輯)

○西臼杵郡高千穂町・・・押方地方に蘭の里という所がありその附近に走建という者がいた.後世、鬼八と名づけられた走建は、神武天皇の兄君である御毛沼命に征伐された。しかしずたずたに切るられた屍体は一夜のうちに元通りになったので、日向と把後に分葬され、その一部が三田井の地に埋められた。ある日、御毛沼命は池の面に実しい女の姿が映るのを見た.その女は阿佐羅姫といって鬼八が捕えた女の一人でいじめられていることが分った.そこで命は姫を引渡すように鬼八に言ったが、鬼八が応じないので征伐した。鬼八の死骸は埋めても、何度も生き返るので、命は田部重高に聞いた。田部は「鬼八の身体を三つに斬って別々の地に埋めたらどうか」と答えた.そこで三つに斬って、頭を加尾羽、手と足を東光寺尾羽子、胴を祝部の前に埋めた。これで鬼八は生き返らなかったが、魂はいろいろな祟りをするので人間をいけにえとして供えるようになった。祟りはなくなった。後、人の代わりに猪を供えることになった。明治維新まで、鬼八塚の猪祭りは続いたという。(『神代の史蹟と日向の伝説』)

○西臼杵郡高千穂町・・・「谷は八つ蜂は九つ戸は一つ鬼の窟はあららぎの里」と歌によまれた鬼八は肥後の阿蘇明神に仕えていた。ある日、明神に命じられて矢取りをしていたが、足指にさして返したので、明神は宝剣を抜いて怒った。鬼八は大岩を踏みくずして押方に走った。三田井の御池の竜女の化身、阿佐羅姫を妻にしていたが三毛入野命に求められ反逆したので、田部重高らに征伐された。しかし、斬られても一夜にして元の体に返るので、手足を東光寺尾羽子に、頭を加尾羽に、胴を祝部に分葬したという。(『宮崎の伝説』)

○西臼杵郡日之影町・・・鬼八は走建ともいい、この地の夷族の首魁であった。山川を疾走登捗し、アララギの郷に拠って、良民を苦しめていた。そこで、御毛入沼命が誅戮した。命が日之影まで来たとき、鬼八は俄に大雨を降らせ川水を増させて、進路をたとうとしたので、命は空を仰いで祈った.すると、雨がやみ、川水も減った。それから日の影という。鬼八は死後鬼八申霜官として祀られた。その祭を鬼祭といい、十三歳以下の女子を鬼八塚の前に七尺の棚をかけて供えていた。人身御供となった女子は長生きできなかったという。どこからともなく飛んでくる白羽の矢でその女子を決めていたが、天正年中、岩井川中崎城主甲斐宗摂の娘に当った。宗摂はその時から娘の代わりに猪を供えるようにした。それで、岩井川村では猪狩りをし、十一月二十日に猪狩祭りをする。そして、十二月三日の鬼八祭りに三十二人の者が猪を供える習慣が明治初年頃まであった。人を猪に替えた代わりとして、祭りの当日には大人と小崎部落からは芝居を奉納し、松ノ木、追川などの他部落からはたいまつを供出したという。(『日之影町史』)

○西臼杵郡高千穂町
●文治元年(一一八五)三月「〔旭大神〕十社大明神記」・・・十社大明神と奉申ハ、天ぢくまかつ大こく、むろえかうり、小野之里、興呂木之大里 じんむ天王之王子正市伊様。円部野犬じんむね重、若丹部野大じん佐田重、ぎよけん之かため御奉仕、あまくだらせたまふ。『日向之国戸鷹』ヨリ高知尾ニ御登り被レ■成、『四方じがみね、くじふりが山』御下向被レ■成、七日七夜之御じんらく、それヨリ谷ハ八ツ嶺ハ九ツ しちぶつ七夜之いわやほとり あらゝぎのさと と申所ニ大里ヲタテ御移り有。其後は、高知尾山おく、二神山ほとり、ちんちがいわや 有り。きはちふし申まへぬすむ.それたいぢ、いらせたもふ。御供丹部野犬じん、若丹部大じん、惣而四拾四人衆、あなにおしよせ七日せめ、四拾貳人ハ鬼ニうたれ、大生じん(大将神)が三人残り、うちむかわせたもふがいわあなヲをち、にげ方ニ三田井原ニ追付たゝかへば、大生は八尺之御よろい、たまらずうちちぎる。佐田重是ヲみて、持たるけんヲからりとすて、ほうじ〔星〕ニむつとくむ。是天地ことふせ、日月まいり下り、まもりあり、七拾五度にくみふせ、大生鬼ヲ切取、いけこむめ、おさへ二八尺之いしヲかけ、其上ニ土をむねたまヘバおにつがり、おさへのいしヲうごかしうどみ申ヨリ、三つニ切り、三所(日向三田井、肥後阿蘇、下日向)ニおさめたもふ。其時、(くわんじん旭大じん重鷹、かんずいせき百八つなぎ、御りん衆さづかり、是ニ改有、じみやう(寿命)まんざい之御じゅずとさづかり)(以上、中古ノ或事ト混説紛乱ス)其後ニ岩屋ニまします八方びじん、喜 さきニなおほらせたまふ。(後略)
●建武五年(一三三八)「高千穂十社御縁起」・・・きやうだい三人の人々は、いづれにかあとをたるべきとて、こゝかしこをもとむるにあるところよりすこしそひあいてたかきところあり、一のこおりにつき給いて、あるみねをみ給えば、かわかみのしんぎんよりひかり物ぞくだりける。きやうだい三人の王子たち、おそろしや、こはなにものにてあるやらん、われをさまたげんずる物やらんとて、しんぎんふかくたち入給ふ。これはおなじきこおりのうち、高知尾みねといふところ也。ある小河をわたり給ふ時きわめていろしろきくまとゆへるけだものはかなくなりていたり。おなじけだものながら、まろがきたれるさきにはかなくなるこそふぴんなれとて、かのたにのほとりにうづめ給ふ。かれがみやう(名)をとて、くましろのわたりとつけられ給いけり。このさとにありけるこらうのしんをめして、おほせられけるは、そもこのわたりをば、なにのわたりとゆふぞと御たずねありければ、こらうのしんこたへて申すやう。さん候、この□■たにを、とをるたびに、人あまたしに候へば、鬼がさとゝも申す。又いまうしきわたりとも申候とぞこたへける。王子たち、それをきこしめしておほせありけるは、なんぢしれりやいなや、まろこそかの国のぬし、じんむ天王のただしき御子なり、なんぢらりやくのために、われこれまできたれり。このしんぎんよりひかりものくだれるは、なにものぞとおほせられければ、かのおさこたゑ申、さん候、これおそろしき人にまします。このやまにつゞけるうばたけのある大明神の御こ、いねおの明神(稲穂明神)には御むすめ、うのめの明神とて、かの山のおくちちのいわやと申すところに、大地廿五ちやうのそこにわたらせ給候。王子の給はく、それはおとこのまします人かとおほせられければ、さん候、きわめておそろしき人にて候。なをば きはちほし三千王と申候があひなれたてまつりて、つもれるとしは九万三千六百さい、かのうのめの明神にあいなれて三千五百よねん、ちゝのゆわやにましまし候。かの明神の御としは四千八百七十よさいになり給ふ。さて、かれはこれにあるやらんとおほせられければ、そのぎ候はず、たうさ(或き)んはすみよしの明神にかたらわれて、たい国にわたりて候、いま二三日へだてゝ、この国へきたるべしと申す。さてなんぢわれにあない(案内)をしてゑさせよとおほせられければ、かしこまりて、ち■のゆわやにましましけり。あるところの大がをみ給へば、ふち(淵)だいぢ(大地)ゑきれ入りておびただし。その時、ほつたいしやか(法体釈迦)くさきをとってあまのはしをわたさんとし給へば、いさいのさうもくの物いけるあいだ、さかしば三本、めんとういとをもてふんし(封じカ)給ふ。そのゝちあまのはしをきりわたし、かわついわつとなづけて、ちゝのゆわやへとおり給ふ。かのゆわやと申すのは、こんこしゆけうにおよべり、ゆわやのくちにたゝずみてきゝ給へば、けにもうちには廿五のきかくをそろゑ みのうの御がくそうするこゑきこゑけり。すなはち、じんむ天王の太郎の王子、御がくにつきて入給ふ。かの女房御かたちをみたてまつるに、天人のやからもこれにはいかでかまさるべきと。王はのたまはく、なんぢとわれと、くわこのしゆくいん(宿因)なり、げんざいのちぎりあり、みらいとても一ねんむりやうこう(一念無量却)げんねん(現縁カ現念カ)五百しやうのちぎりがふかければ、みろくの御代まで、わがいぢよになり給へとて、つまにつまをひきかさね給へり。三日をへだてゝきこゑつる。きんばちほうしといふもの、いわやのくちにきたりて、十しやの王子ましますよしをみたてまつり、おこれる心いらかって、王子をうちとらんずる。きやうだい三人の王子たち、きんばちほうしをおつかけけり。なかにも太郎の王子は一ぶ八くわんのほくゑきやうをこうべにひしとまき給いて、すなはち、くづりう(九頭龍)となり給ふ。あまのはしをおいわたして、とあるところにてうちとり、五ちやうがそこにしづめて、うゑには八しゃくのいしをふせられ、うゑをロロして、うゑにつちをはね給ふ。そののちおこれる事もなし。又もとのちゝのゆわやにぞ入給ふ。かのうのめの御ぜんにちぎりをふかくむすびたてまつる。されば一日かた時も、はなれがたくぞおばしける。(後略)

○西臼杵郡高千穂町
●延宝弐年(一六七四)「高千穂庄神明帳」・・・十社大明神。乃至神武天皇第一御子正一位之・・・彼御神荒人御時、日向国うどより高知尾庄三田井郷ニ御光臨被レ■遊候。其時之当国之守護興呂木山氏と奉■申。彼御所へ御着被二■為成為二■御遊山一■南面ニあづち(■)を御あげ、まとを被レ遊也。まわり五尺ニして、五色之まとなり。然処ニ、其比、高知尾押方之内、小谷内 千々がいわや と申所ニ、鬼八ほうしと申悪鬼いできたる也。此鬼を打果被二為成一べきと御許定二而、彼御両神三田井郷を・・・し、押方小谷内千々がいわやと・・・押寄被■為成一候処・・・さけぶこへおびたゞし。いわやノ内にて御太刀にて御切被二為成顔処ニ、いわやノ口数々有レ之二付別のいわやより其身が所持之つへを付逃出たり。此鬼のつヘハ、四方一尺づゝニして、長一丈三尺ノいしのつへ也。此鬼手おひ、夫ヨリ 二神山之北、横原と申所之谷嶺通、夫ヨリ西ノ方三ケ所ニ逃行、内ノロと申所、大川小川渡ル。彼所へ四方ハ弐十間ほどのしらたきの中、三間余りちうをつきぬけ通、夫より 諸塚之太白山へ逃行。御両神ノ追掛たまふ・・・余于、ゑら、中だけの童山・・・逃行。それより 奈須山 入、夫より米郎山 二入。御両神弥々御詰かけ被レ成候へバ、八代ニ逃行。夫より あその谷 ニ逃行也。夫ヨリ 豊後川原 と申所へ参候、御両神弥々.御馬ニむちを御あてせめたまふ。夫より御領内 祖母嶽山之山入ル。是をも をいいだしたまふ。此鬼ハゆくべきやうもなく、またもとのすみかをこゝろざし、三田井のやうにげ入ぬ。弥々ひまなくおつかけたまへば、鬼は ひさげのふち と申大川を渡り、夫より ねびき原 と申所へ逃。夫より鬼之すむといふ あらゝぎ山 と言に にげ入ぬ。つゞけて 追掛たまふ也。夫より 松いの原 と申山ニ入ぬ。御両神ハ無隙御馬にておひたまふ。則此所ニ 百丈之たき と申所ニ其時ノ御馬之あしかたいまニ其紛なし。夫より三田井の内 せと 申所ニ無隙追詰被二為成一御打果被二為成一侯。其時までも、右之いしのつゑつきたり申也。其つへ、いまに鬼之つへと申有レ之儀無紛候也。彼鬼を御切被二為成一候太刀こそ見切丸と申侯也。寛文拾弐年子ノ八月廿九日炎失也。此鬼を御切留御行・・・被為成ニ而、上ニハ四方八尺之おさへのいしを被置候得バ、うどみはたらき申おと有レ之二付而、まためし上ゲられ、三つニ切はなし被一為成一候而、首、両の手ハせと、どうたへはまつ山之下、足はこがと申所ニ此鬼のつか有レ之也。然後、鬼ニ末代迄もゑじきを可レ被レ下との御事ニて、高知尾之内、岩井川より従古わ至テ、鬼餌と申候て、猪を持参仕申候事、此いわれ也。年々十二月三日之御神事之時大宮司并に神穀、此・・・殿、此鬼八ほうし(星)ニ祭りし・・・。大明神之御社之御事、四方下ル、立テ四百余り、横ハ五六百間可レ有レ之。此宮山之後杜(コソ)、胎金二界七仏生所之岩屋也。是杜秘密之宝所と申也。谷ハ八ツ峰ハ九ツ戸ハ一ツ、鬼のすむといふあらゝぎのさとと申しんぎん是也云々(後略)

○西臼杵郡高千穂町
●「高千穂惣鎮守十社大明神縁起巻」・・・高千穂三田井村の竜神、釈迦羅竜王に朝比天女という姫宮がいた。千千巌窟という岩窟に鬼八という悪鬼が攻渡り、その竜女に思いを寄せ、夜な夜な通ってきた。そして、世界を魔国にしようとしていた。その時、三毛入野命が天席大神の勅命を受け、天磐座を押し放ち、天之磐戸を押し開き、悪鬼退治に円部左大臣、富高右大臣を先として、四十五人、猿田彦の導きで、鬼退治に出陣してきた。鬼八が巌窟からでてきたさまは、身の丈二丈余にして、面は赤く黒くして、頭の角古木の如く、眼は八咫の鏡の如く、ロは鰐のロの如く、手足の毛は針鋼の如く、ロより火炎を吹きかけ、雷が荒れているようであった。四十数人の者達もことごとく破れ、丹部左大臣、富高右大臣と命の三人で戦っていたが、鬼八は叶わぬとみて逃げだし、三人はそれを追った。そうして、漸く、命の剣で討ち取り、その体を土中に埋めた。ところが、そのまま一つになってうなるので、それぞれ切り難し、首は、先の所に埋めて塚を立て、体は瀬戸口之上に、両手は市野堀之上に、両足は東光寺村に埋めた。(要約)

○西臼杵郡高千穂町
●文久三年(一八六三)五月「高千穂庄神蹟明細記」・・・荒振神鬼八墓。此神本名走建なるを、中古法師の何事も事諜りしころ、謚して鬼八法師と名を改しより、なべての人、(中略)鬼八といひなし、巳に此所に建たりし墓に「鬼八申霜宮是也」とかけり。是よりして児女は更なり、なめての人、鬼八法師といふ神ありしと思へり。されど鬼八てふ名ハ更なり、法師てふ名神にあるべきよしなし。是ハ三田井家のころ尽く仏法を用いられて、何神も習合を旨とせられしころ、法師の鬼八法師と謚なしたるよしは、当所伝来の旧説に見及びたれば、此説信なるべし.さて、書紀をみるに、三毛入野命は常世国に入給ふとあるに、此高千徳に正しく此御古事を始め崩給ふよし、定かに十社明神と祭り奉るよしなど考ふに、旧都に悪神あるを鎮給ふために留り給ふこと(不明)なし。此走建は五瀬命をはじめまつり、四柱の神達東に出ましの跡にて、力あるまゝに高千穂の都を領し、民を悩し、美女をあつめて乱行限りなかりしかば命是を聞召て暫く常世の出ましを止り給ひて、此走建を討給ふ也。此御旧跡所々にあり、正しき御古事なり。此塚ハ切給ふ頭なりといへり。此走建力あり、土蜘蛛にて殺される体幾たびも一ツになりて動めきければ、分ちて所々に埋め玉ふといへり。其埋め給ふ一所ハ、肥後の国内にあり、此鬼死後もさまざまの崇あれバ、生贄を供へ祭り給ふ例しなれバ、はじめハ如何計の崇かなしけむ。年経るほどに、例の法師等がエミて附会の事もあるべし、その時代に鬼八法師と云名も謚りしと聞けり。神代の名ならぬハ、後の謚なれば、さもあるべし、故に今も猪祭とて、岩井川村より年毎に十二月三日に猪もて乗りて祭ることあるハ、古きことと聞けり。此祭に付て種々考あり。今の墓ハ 近来改たりと聞く。旧来の墓に■るハ、「鬼八申霜宮是也」と書り。此書様俗びたりといヘども、霜官といふこと故あり。此神を切給ふ時、切放ち玉ふ体、やがてもとの如くになりけれバ、命是を鎮めんとて、手足を切放して、所々に理み玉ふ。其中半身を埋め給ふ所、今肥後国内にあり。此半身を埋めたる所にて、此祭あるを霜の祭といふなり。十三以下の娘■を取て、■に当れば、其としの祭を勤るに 八月の何日とかいふより九月に及ぶまで、毎夜此塚に火をたくといへり.此祭霜を恐れてする祭なりと云へり.此祭心に叶へば霜遅く降りて秋の種物よく成就し、祭叶ハぎれバ、霜早く降りて種々を損ふといへり.此祭に仕へし女児に、霜遅き時は稲数束を村民より送り与ふ。若霜早く下れバ、藁数束を送りあたふといふ。されバ、霜を随意にする神也。こゝをもて霜宮とハ云ふか。此塚を祭るに、岩井河村より年々猪の生贄を祭るに、又あやしむことあり.此祭る所の猪をソジゝと云所を取除き持帰りて、岩井川村の太子大明神と云に祭る。此神ハ大山祇神也。神代巻そじゝの空国といふ事もあり、いかにも故ありげ也。岩井川村に問明らむべき事ぞ.十社大明神。(上略)書紀に三毛入野命ハ常世国に入給ふと記し玉へど、此社伝を考ふるに、しバらくさる思ほし立つは有りつらむを、この御旧都に荒振神ありて、人を悩すをいかで見捨て玉はん。こを平らげ給はんとて、再び旧都に入せ給ひて、世を終玉ふとすべし。社伝に云、上古大力の土蜘蛛あり、名を走健と云。能く走事をなす故に名とす。かれが住所を押方村千々が窟とも、又ハ三田井の鬼が窟とも二様に伝へたり.かしこに住て、人を悩し、貢を我物とし、美女をとる。三毛入野命、是を聞食て、軍勢を催ふし討給ふに、此土蜘蛛よく走りて命の軍をさく。所々に隠れ所々に横行す。命さまざまの御謀をまうけ給ひて、かれを追詰たまひ、三田井の里に討取玉ふ.其事ハ前の鬼の塚の所に云へり。其後年久しく此里に住給ひて崩じ給ふ。御陵ハ此神社の辰巳に当りて、杉の上といふ所にあり。

○西臼杵郡高千穂町
●寛文十二年(一六七二)「十社託宣記」・・・寛文十二年子ノ九月十六日次のような御託宣があった。(要約)「(上略)国土いむ事有、二王きやうくわん(叫喫)あのん(阿吃カ、安穏カ)といのるべし。今はうど、きり嶋、阿蘇の嶽、しんかが森、こくふ(虚空)ヲ掛(翔)るぞくるしけり、それいかに、日本はじめ、高千穂山をくに、ちんぢが窟有、鬼八ほうし、まゑん(魔縁)有。其たいぢニ入時 丹部左大臣宗重、若丹部大臣定重惣而四拾四人、岩穴え押寄ほうしに対面し、七日責、四拾二人は被殺、しん(臣)家弐人残打向ば、岩穴ヲおち逃二方方一、三田井原追付戦、八尺のよろい、けたまらず、打ちぎる。定重是みて、持たる刀ヲからりと捨、ほうしニむずとくむ。くみてハくみ、七拾五度ニくみふせ、是天地にどうぜ、日月まい下り守有、鬼ヲ切取、池ニはめ、おさへニ八尺の石ヲかけ、其上ニ土ヲはね、其時朝日の免たり。其より重高朝臣に剣りよニおとさせじ。大蛇来る。のまんとす、大難の(を)しのがせ守けり。土人二 事あわれなり」

○西臼杵郡高千穂町
●宝暦六天丙子(一七五六)四月十九日「十社大明神円祇」・・・凡夫うバたけのあるじ大明神御こ、いねおの明神にハ御むすめ、うめの明神とて、かのやまのおの千々がいわ屋と申ところに、大地廿五丁の所々に、ふたりを□□王子おわし、それハおとこのまします人かとおほせられき。これはさん候、きわめておそろしき人にて候なれば、鬼ほし三千王と申候あひなれたてまつり候つ (後略)(十社大明神鬼八退治諸種文献『日向国臼杵郡高千穂八十八社宗廟十社大明神鬼八退治文歓資料』)

○西臼杵郡高千穂町
●同右・・・十社大明神・・・同所三田井村ニ鎮座。古老伝云往昔大明神遊覧マシ・・・テ塩井ノ池ノ辺ニ臨ミ玉フニ池の底ニ美女ノ容移り見ヘタリ明神此ノ美女ノ姿ヲ見テ恋慕シ玉ヒ如何様此ノ所ニスムモノナラン尋出シテ我妻ニセント思召テ山中残ル所ナク尋ネサセ給ヘバ此ノ山ニ鬼八卜云邪神アリ彼ノ美女ハ阿佐羅姫トナヅケテ此ノ鬼八が妻ナリケリ明神此美女ヲ求メテ妻トセントシ玉ヘドモ鬼八与へ奉ラズコレニ依テ明神卜鬼八卜合戦数度ニ及べり鬼八疵ヲ蒙リテ流ル血泉ノ如シ草ヲ取テ其血ヲ拭ヒタル処ヲ血草ガ原トナヅク田部大臣卜云者明神ヲタケケテ鬼八ヲ討ツ遂ニコレヲ誅シテ三段トナシ頭卜手足卜体トヲ三処ニ埋メリ於是明神阿佐羅姫ヲ取リテ妻トシ玉フ田部大臣ハ其時ノ忠功ニ依テ名ヲ朝日大臣卜賜り其子孫今ニ不絶卜云彼鬼八ガ霊魂ニハ年牲ヲ備フ岩井村ニ狩場ヲ定メテ猪ヲ捕て祭ルト云ヘリ(後略)(『日向見聞録』)
○西臼杵郡高千穂町
●同右・・・又古ヨリ十社明神ノ祭リニ、鬼八法師ガ墳ニ人牲供ヘシヲ、此ノ宗説(編者注 甲斐宗説)鹿二改ケリ。是ニ依テ高千穂岩井川ニテ、宗説八播宮卜勧請シテ今ニ在り (『延陵世鑑』)
○西臼杵郡高千穂町
●同右・・・〔筑前遠賀郡ノ僧神洞が筆記〕に臼杵ノ郡三田井村に鬼八(キハチ)法師の茎と云物あり昔鬼八法師と云鬼鎮守窟に住めりと云窟は三田井村の近辺にあり此窟東より入ルに歌をゑりつけたる石立り峰は八ツ谷は九ツ戸は一ツ鬼こそすめれあらゝぎの里とあり詣たる人是を紙に摺て帰る者多し窟ノ奥に入ル事六十間ばかりにして川あり川の向ひに黒きものありて横たはれり是ノ上をこえむとすれば高きやうに覚え下をくぐらむとすればひきゝやうに覚えて奥に入る事をえず、又三田井村の七ッ池と云処に御汐井と云処あり、是所に十社明神みゆきの場所あり十社明神は三田井村にあり此社には御供料として往古より五十石つけり六月二十九日ノ祭礼に内藤家より代参あり(後略)(『太宰管内志』)

★荒木博之の記述、鬼八伝説
 もうひとつ考えてみたいのは鬼八伝説である。鬼八については日向の高千穂地方と阿蘇地方に異なった二系統の話が伝えられている。高千穂地方に伝承されている鬼八伝説は概していうならば次のようなものである。
 むかし、むかし、鬼八は山野を自在に駆け回って狩りを生業としていた異族の首魁であった。足の早さを物語るかのようこ、本当の名を「走健」といった。鬼八には阿佐羅姫という美しい妻があった。またの名を「鵜の目姫」というとあるから、鈴を張ったように目の大きなとび切りの美人であったのだろう。その阿佐羅姫に三毛沼命が横恋慕をした。命は四十四人の手勢をひきつれて鬼八を攻め、その身体をズタズタに切り離してしまった。しかし鬼八の身体は切られても切られてもすぐに元通りになってしまうので、首、胴、手足をばらばらにして別々のところへ埋めた。しかし鬼八の霊はときどき地下で目をさましてうなり、早霜を降らして農作物に害を与えるので「猪懸け祭り」を行って鬼八の霊を慰めるようになった。
 阿蘇地方の話はその発端をいささか異にして、鬼八は健磐竜命の「矢取り」の仕事をする従者であった。ある日命が往生岳から的石に向かって百本の矢を射た。そのたぴに矢を取りに行かねばならぬので鬼八はすっかりくたぴれ果てて、百本目の矢は足の指にはさんで返した。激怒した命は鬼八の首をはねたが、首はすぐ元通りになってしまった。そこで命は鬼八の身体をバラバラにして別のところに埋めた。しかし首だけは切られる時に天に舞いあがった。その怨みによって六月の暑い時にも霜が降るようになった。そこで霜宮を建立して鬼八の霊を祀ることになった。
 ところで、御毛沼命は神武天皇の弟であり、健磐竜命は神武天皇の皇孫と比定され、阿蘇大明神として阿蘇神宮に祀られている祭神である。とすれば高千穂と阿蘇に多少違った形で伝承される鬼八伝説は、大和朝廷による土着民征服の歴史をシソポリカルに語っている説話と考えることができよう。
 歴史学者の井上辰雄氏によれば、大和朝廷は、瀬戸内から九州東北部の豊の国をおさえ、そこから海岸づたいに南下し、大淀川流域の平野部に進出し、五世紀の初めに諸県君などの地方豪族を服属させたのではないかという。この大平野部を拠点に大和朝廷軍はさらに一隊は内陸山間部へと進み、もう一隊は海岸沿いにさらに南下をつづけ志布志湾に到達したのであろうという。さらにまた大和朝廷軍は志布志湾から薩摩半島にも進出していったのではないかといわれるが、それは恐らく大和朝廷軍の主力部隊で、笠沙の岬に上陸したという歴史的事実があったのではないかと私は推定するのである。さてこの素人の考えは如何なものであろうか。 それはともかくとして、この内陸山間部に蟠居する異民族征服の使命を帯びた大和朝廷の貴人が、御毛沼命、健磐竜命に比定される人物であっただろう。それが神武天皇の弟である御毛沼命及び孫である健磐竜命とされるのは、大和朝廷の征討軍のなかでは分遣隊的な性格をもった軍勢の首長であったからであり弟であり孫であるとするのは平定の時間的経過を伝説的に表現しているものと考えることはできないだろうか。
 こう説明してしまえば、史実と伝承は見事に対応するわけであるが、この話にはさらに先があってその方がはるかに面白いのである。
 日向の高千穂で語り継がれている話に御毛沼命が高千穂入りをした際に土地の豪族、興梠氏が直ちに恭順の意を表して命を道の途中まで出迎えたというのがある。
 まさに天孫降臨に際してニニギノミコトを出迎えた猿田彦を思わせる伝承だが、興梠氏はさらにそれまでの自分達の居住地(現在の高千穂神社のあたり)を御毛沼命に譲り渡し、自分達は現在の荒立神社のあるあたりに移り住んだという。従って「荒立」は「新立」を意味すると思われるのだが、荒立神社の祭神は猿田彦だというのだから、これはいかにもつじつまが合うのである。
 かくて話はますます興味深くなってくるのだが、「鬼八を愛する会」の代表、興梠彌寿彦さんの証言はさらに重大であった。
 「鬼八を愛する会」とは興梠さん、俳人の田尻恒さんなど鬼八をこよなく愛する人びとが集まってつくっている会である。高千穂にあっては鬼八は逆賊どころか、土地の人びとからあふれる好意をもって遇されている人気者なのであった。興梠さんは言う。「鬼八という男は女房を寝取られたり、矢取りでこき使われたり、間抜けで、あわれで、そこが何ともいえない魅力なんですなあ・・・もっとも私は鬼八の子孫なんですよ、興梠というのは。鬼八は土蜘蛛でここの土着民でした」
 私がこの話を聞いた時、私は思わず自分の耳を疑った。
 鬼八が先住民の土蜘蛛的存在であろうことはこの説話のあり方からほぼ見当をつけていたことであるが、コオロギというきわめてユニークな名前を持っている土着の人から、鬼八は土蜘蛛で、コオロギ氏はその子孫であることをこともなげに告げられたときの衝激はたいへんなものであった。
 これまで土蜘蛛と呼ばれている異族については、本居宣長をはじめとする多くの学者は蛛形類の地蜘蛛のように竪穴に居住するが故にそう呼ばれたと考えてきたし、津田左右吉をはじめとする他の学者たちは、土蜘蛛は蝦夷と同じような単なる賤称に過ぎないのであって、穴居のことや、手足が長いことなどの記紀、風土記に見える描写は、土蜘蛛という名からくる連想に過ぎないと考えてきた。
 しかし、私は興梠さんの話を聞きながら、直覚的にこれらの説は違うなと思ったのである。
 私は興梠さんにお目にかかったときから「コオロギ」というその姓に関心以上のものを持っていた。そして興梠さんが「鬼八は私の先祖で土蜘蛛です」といわれたとき、私の脳裡に真先に浮かんだのは「コオロギ脛」という狂言に出てくるあの長脛についての表現であった。
 万葉時代にあっては、コオロギは秋鳴く虫の総称であるといわれるが、いずれにしろその時の私は足の長い蜘蛛とコオロギを重ね合わせながら、山野を自在に駆けめぐっている鬼八こと「走健」の雄姿を思い浮かべていたのである。
 古老のいへらく、昔、国巣∧俗の語に(都知久母)、又、夜都賀波岐といふ>山の佐伯、野の佐伯ありき。(常陸国風土記)
 高尾張邑(たかおはりむら)に、土蜘蛛あり、其の為人、身短くして手足長し。(日本書紀巻第三)
 ヤツカハギ(八束脛)とは脛の長さが八つかみあるということできわめて足の長いことをいう表現であった.興梠さんの証言を踏まえて風土記、書紀に見える土蜘蛛の長脛をいう右の記録を考えてみるならば、それらは決して土蜘蛛という呼名にひきずられてできた絵空事の説明ではあり得ないことが理解されよう。したがって、神武東征説話に登場する長脛彦と呼ばれる異族もまた、当然土蜘蛛の特徴を明らかに備えた存在であるということができるのである。
 最後に私は健磐竜命が往生岳に腰をかけて的右を射たという、その往生岳と的石とを実地に見たときの感動的印象について語らないわけにはいかない。写真にある通り、往生岳は馬の鞍のような凹部をもった二つの嶺を総称していうのだが、小山の如き的石を前に、はるかに往生岳を望んだ私は、この鬼八の的右説話の基底に明らかに巨人伝説が伏在していることを実感として感じないわけにはいかなかった。的石伝説はその上にのっかった上層の部分ではないのか。そのことは一般に巨人伝説といわれるものが神話的伝説と呼ばれるもののなかでも最も古層に属するものであることを示しているという仮説にもつながってゆくことになると思ったのである。

第十章 高千穂の鬼八伝説
★三毛入野命の御事
 神武天皇には、五瀬命・稲飯命・三毛入野命の御三兄がおわしたが、五瀬命は御東征の際、賊矢にあたって薨ぜられ、稲飯命は妣の国に、三毛入野命は波の穂をふんで常世の国に渡らると古事記には記している。一方、日本書紀には趣きを異にし、御東征中、熊野海上で暴風雨に逢い。皇舟が漂蕩した際のこととし、次のように伝えている。時に稲飯命乃ち歎きて日はく、嗟乎吾祖は即ち天神、母は則ち海神なり。如何にぞ、我を陸に厄め、復我を海に厄むるやと。言ひ訖りて、乃ち剣を抜きて海に入りて鋤持神と化為る。三毛入野命亦恨みて曰はく、我が母及び姨は並に是れ海神なり。何為ぞ、波瀾を起して灌溺すやといひて、即ち浪秀を踏みて常世郷に往しぬ。
 これについて、或は二皇子の難破溺没せられたことを説く者あり、或は日本武尊の妃、弟橘姫の場合のように、海神への犠牲として入水せられたのであろうと疑う者あり、色々に論ぜられる。
 しかるに、以上、記紀の所伝とは全く異なり、我が日向の臼杵高千穂地方では、三毛入野命が、この地の悪魔鬼八を退治し、良くこの地を活め、十社明神の主神として祀られたと伝説する。
 その顛末は甚だ荒唐無稽に亘るが、「高千穂御神跡縁起」「高千穂十社大明神之事」などによって左に略記する。

★鬼入退治の事
 鬼八は鬼八法師・金八星・走建などの別名があり、押方村の洞窟に棲み、夜間出でて財貨を盗み、婦人を拐かし、村民を畏怖させた。
 さて、クシフル山獄に宮居していられた三毛入野命が、或日、御塩井の池辺を逍遙していられると、水面に素晴らしい美人の姿が映った。命が人を遣わして、その映った影の主を尋ねられると、それは蘭の里の岩窟に棲む鬼八の妻阿佐羅姫で、別名朝日姫・鵜の目明神とも称し、もと、三田井の御池に棲む龍女の化身で、鬼八から拐かされたものであることが判った。
 そこで、命は、鬼八に阿佐羅姫を返すより命ぜられたが、御意に従わぬので、鬼八征伐の軍勢を向けられた。
 鬼八はその追討軍を迎え、魔術を使って防戦し、或は大木の梢に登り、或は虚空を翔け、或は地上を飛び走って、千変万化に戦ったが、遂に敗北して、その身は段々に斬り裂かれた。
 しかるに、不思議や、その屍骸を地中に埋むると、一夜にして元の生体に返り、又々、様々の禍をなした。
 この時、田部重高という神職が、長刀を揮って鬼八を斬り、命に建言して、鬼八の手足を東光寺尾羽子に、頭部を加尾羽に、口部を祝部の前に分け埋め、その後、毎年三回、少女を犠牲に供して、その亡霊を慰めることにした。
 かくて、鬼八の怨霊も鎮まり、命は阿佐羅姫を妃として、大に治績を挙げられ、後、十社明神の主神として祀られ給うたという。
 右に述べた少女犠牲のことは、村民の嘆きにより、その後、野猪を以てこれに代え、鬼餌の狩と称して、岩井川邑に狩場を定めて、永く猪狩りの行事を続けた。
 鬼八の棲んだという蘭の里について左の歌が伝えられる。
    谷は八つ、峯は九つ 戸は一つ
        鬼の窟は あららぎの里
 右の歌意は十分には解し得ぬが、案ずるに、谷は「扇ケ谷」とか、「熊ケ谷」などの「ヤツ」で、また、鬼八の八に擬したのであろう。
 九つの峯は大峯・羽黒山などの九峯で、古来、修験道の行者たちに崇拝された修道の霊峯であった。
 戸は一つは、鬼のすみかであるから、普通の民家と異った一枚戸の家の意か。最後に、あららぎは、蘭奢とも書き、梵語で寺塔の意である。鬼八法師の法師に関連する。
 要するに、この俚歌は山伏、修験道関係のもので、鬼八の素姓を暗示しているようであ
る。

★蘇関係の鬼八
 鬼八は、「筑紫紀行図誌」によれば、阿蘇宮にも関係を持っているようである。肥後の阿蘇嶽に鎮座される阿蘇明神(建磐龍命か)は弓射を好まれ、常に鬼八に矢取を命じていられた。ところが或時無礼にも鬼八が御矢を足指に挿して奉ったので、明神は怒って宝剣を抜かれた。驚いた鬼八は、大岩を踏み崩して、日向の国境へ走せ下り、この地方で、散々悪行を働いて村民を悩ましたので、三宅入道という者に討たれたと伝える。
 右の伝説にも、「走ること」が言われるのは、鬼八の一名「走建」の由来を示すもので、
走建は「駈け足の勇者」の意であろう。
 また、三宅入道の名は、三毛入野命に似ているように思われ、阿蘇と高千穂と神話伝説の近親性も考えられる。
 なお、肥後地方では、鬼八は「鬼八申霜宮」として祀られ、十六歳の処女が籤引きで祭事に奉仕(お添い寝という)、八月から九月に及んで、毎夜、その塚の前に火を焚いて、霜害のないように祈祷を篭めるという(阿蘇宮由来)
 そして、その祭時には、岩井川から、年々野猪一頭に三十二人を附けて供し、祭祀終れば、人々はその肉片を持ち帰って、更に祭儀を行う例であった。
 三毛入野命が高千穂に悪魔を退治されたということは、記紀などにも見えず、まして命の時代に法師など居る筈もない。結局、この伝説は、後世の悪山法師の濫業を附会したものか、或ほ又、鬼八星とも呼ばるるので、天文に関する妙見思想、斬星剣の偶話とする考察(藤寺非宝)もある。神仏混淆の地方伝説と言うべきか。
 斬星剣といえば、タケミカツチ・フツヌシの二神が、天命を奉ぜぬ悪神として、天甕星(香々世男)を斬らんと、天照大神に奏言した神話も思い合わされる。
 天甕星が何故悪神か、その仔細は判らぬが、思うに上代日本人は、明るい陽光を愛し、反対に暗い夜天に輝く星光、特に血のような光りの火星、アンタールス、或は不気味にまたたき輝くシリースなどの諸星を忌み嫌った。否、あの美しい月までも、夜天のものとして、今日のようには喜び親しまなかった。或事によって、天照大神と月読命と御不和になり、爾後、また相見じと大神が仰せられたという神話も了解されるようだ。
 大陸との交通が始まり、その地の文化・思想が輸入せらるるようになり、我が国人も奈良朝頃から、彼の地の文章や詩賦に親んで、次第に月や星を賞観する風潮を馴致したのであった。
 金八法師の余談として、私案を述ぶれば、天孫降臨神話以来、数々の霊蹟を誇る高千穂に、或る時代、熊本方面から仏教が導入され、ここに神仏二教の紛争を生じたが、遠く紀州熊野などとも関連のあった神道派は、遂に相手を掃討した。即ち破戒無慚の悪僧鬼八法師を神武天皇の御兄君三毛入野命が撃滅されたという伝説が出来上ったのではないか。

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