七夕と盆の準備

※『宮崎県史 資料編 民俗2』(平成4年3月)小野重朗執筆分より。引用の際には原本をご確認下さい。

 七夕や盆は一般には旧暦七月に行なうものであったが、太陽暦に改まって、近年は一月遅れの八月の行事となっている。ところが早期米地帯ではその頃が稲刈りで忙しいので新暦の七月に行なう農家が多くなり、一つの集落の中で新暦七月と八月の盆が並び行なわれることが見られたりするようになった。

七夕竿
全県的に七夕竿(一般的には七夕様と呼ぶことが多い。)を立てる習わしがみられる。そうした中で後に八月の所で記すように、宮崎市から日南市にかけての地方には短冊を立てるのを七月でなく八朔の八月一日一日にする集落が相当多いことが注目される。
 七夕竿は前日の六日の夜に用意する。短冊の文字は芋の葉の露を用いて墨をすると字が上手になると言う。短冊には七夕とか天の川といった字をかくが、律儀に和歌を書く人もいる。東郷町坪谷の古老は「七夕のと渡る船のかじのはに結びつけたる恋のたまずさ」と子供の頃が意味を知らずに書いたという。短冊を結びつけるのは今年竹がいいという。短冊のほかにも色紙の細工やほおずきや人形なども下げる。これは六日に用意しておいて七日の早朝に門口に飾る。この竿に供えものをするところもある。例えば西郷村川瀬では竿の下にお膳を据え、ソーメンと線香を供えたという。七夕竿を家の門口に立てずに川辺や海辺に立てる珍しい例もある。串間市の今町、金谷などでは七日の早朝に子供たちは福島川の下流の川や海にでて水のさす所に入って七夕竿を立てる。今は川岸が護岸になり、それに川が汚れるからとこの習慣もとり止めになっている。また、県北、北川町の藤の木や川水流では家々で用意した七夕竿を曽木川や五ヶ瀬川の川岸にそれぞれ並べて立てた。川辺に並んでとても美しいものだったという。また七夕竿は一般には男の子も女の子も共に立てるものだが、山之口町や高城町などでは女の子立てるものとされている。
 七夕竿は七夕の翌朝の八日に川に持っていって流すというのが広く行なわれているが、その次には盆の終りの十五日か十六日に精霊流しの品を川や海に流すときに、七夕竿も流すという例も多い。七夕竿の部分だけ流して、竿は残すというところもある。川に流れた人を助けるには七夕竿を使うものだと言う。
 木六竹七といってこの頃は竹を切るによい月で、七夕竿を伐るときに一年中の物干竿も伐るのが習わしで、七夕に切った物干竿は先からでも元からでも洗濯物を通してよい(普通の竿は先から通すものという。)と言われて、この頃は溝川に青い物干竿の漬けてあるのをよくみかける。墓地の花筒の竹筒もこの時に切る。

水と七夕
七夕には仏具をはじめ大黒様や膳、椀などの盆器の類を川辺に運んで洗う日となっている。女の髪の毛もこの日の川水で洗えばよく伸びるという。井戸ざらえ、井戸の網かえも七夕にするものであった。子どもたちは七夕には一日七度半水泳ぎをするものだという。七夕団子を七遍食べ、七遍水浴びをするともいう。川辺に立てる七夕竿を考え合わせて、この日は水辺で水の神をまつる日であったと考えられるかも知れない。

盆の用意
七夕はまた盆の用意を始める日でもあって、墓こしらえ、墓ざらえといって墓掃除をし、新しい花筒に替える。墓地だけでなく墓に通ずる道や山に行く道なども七夕道作り、盆道作りといっている。ソーハギ(和名 イヌガンピ?)やハギなどの盆花や精霊様の を作る植物をとってきておく。古くからの町には七夕市、灯籠市などという市がたって、盆の用意の灯篭とか、精霊様の青茅で編んだこも、迎え火用の 松の割ったものなど買うことができる。
 新精霊を迎える家では迎え火も七夕の夜から焚きはじめて十四日にちまで毎夕焚き続ける。精霊はあの世を七日に出発されるだというる新精霊参りなどといって新盆を迎える家には地区の人たち全戸から参る習わしの地方も多い。
 これとは別に、宮崎市の瓜生野、金崎あたりから綾町あたりでは七日の七夕前後に盆ジョユ(ショユは招待、接待の意)といって、嫁にでた娘、分家した子が、生家に帰ってきて、両親や祖父母に御馳走をする。実家には迷惑をかけず手料理で親をなぐさめる。

施餓鬼法要
浄土真宗以外のお寺では盆前(今は新暦八月)に日をきめて施餓鬼(セガケと訛って発音される)を行なうのが普通である。県下の浄土真宗の分布は、概観すれば県南の諸県地方一帯と県北の西臼杵郡の三町などが  が高い。従ってこの地方には施餓鬼はあまりみられない。
 この日、寺には本堂の縁側に近く施餓鬼棚を作る。盆棚に似て四本の竹笹の柱に棚を於いて位牌をおく。位牌は三界万霊精霊の位牌である。供え物は瓜、ナスの馬など。本堂には縄をはって施餓鬼の旗を数多く垂らす。色紙の短冊を長くつないであり、経文を墨書きしたもの。檀家全戸の人々が集まって法要が営まれ、全員が焼香し、読経が終ると人々は施餓鬼の旗を奪いあうようにして取る。これは家に持ち帰って盆の精霊棚の脇に掛けておく。施餓鬼は無縁の霊をまつり、それに加えて家々の新精霊をまつるという伝承は一般にきかれる。

虫供養との関係
セガケと呼ばれる行事の中に都城市とその近傍のものはだいぶ異質である。期日は新暦七月とだいぶ早く、半夏生に行なうところもある。神社で行なったり、神職をたのんで地区役員が集まり、豊作を祈る。白紙に虫を除ける文字を書いて、地区内の水田のあちこちに立てる。しかし虫祈念とは言はずセガケといいセガケの旗というるそこで思い当るのは県北の施餓鬼でも色旗を盆の精霊棚に飾るだけでなく、竹笹につけてわが家の田に立て、虫除けにするという所が多いことである。無縁の霊を供養して、虫を除けてもらおうとする施餓鬼の意識が、都城市あたりでは虫除けのして独立したと考えられる。

庭の精霊棚
盆の精霊を祀る精霊棚には庭に作るものと、家の中に作るものと二種類がある。庭の精霊棚は今でも作る地方は相当に多く、山地よりの東臼杵郡の町村には広く見ることができる。その作りはみなよく似ていて、四本の笹付きの竹が柴つきの雑木を柱にして立て、人の川の高さほどの所に、柱を使って床と天井、前開きの三方の壁を作る。こうしておよそ三〇  方形の柴、笹で囲った小部屋を作る。盆の十三日に作り、十四日にはこの棚に芭蕉葉を敷き、細井ワラ縄の和を置いて水の子(胡瓜、イモガラなどを刻んだものに、米粒、小豆などを混ぜたもの)を一つまみ、茶碗の水などを供える。毎年これを作る代りに木と板で組立式の精霊棚をもつ家が多い。この庭の入り口近くの場合と、家の表側の緑外の場合とがある。後者では家の中から供え物などができる。名称はオショロダナが一般的だが串間市あたりでは餓鬼棚といっている。この精霊棚はどんな役をするかについては、二つの考えが聞かれる。家の精霊様についてきた無縁の霊を家の中には入れず外で祀る場所だというのである。これを餓鬼棚とというのは後者の考え方と言えよう。

家内の精霊棚
現在では家々に仏壇があって、盆の供え物だけをその前にするようになったところが多いが、本来は仏壇とは別に机を置いて、その上に先祖の位牌を十三日に移して、のそこを精霊棚・盆棚として精霊様を祀るもので、その周りには屏風か、障子かふすまを立て回した。机は芭蕉か新しいお精霊こもを敷き供え物を置く、まわりに団扇をおき、屏風には新しい手拭を掛けておく。高千穂町、五ヶ瀬町などではこの精霊棚は大きな板か戸板を天井から吊り下げて作るものであった。串間市では立派な四本柱のある白木の精霊棚を盆毎に組立てて表の間に置いて祀る。また注目されるのは県の最北の北浦町の三川内では、縁の隅か、縁の内側に庭の精霊棚とよく似たものを作り、そこに仏壇に位牌を移して祀る。これは庭の精霊棚が庭の入り口から縁側外へ、更に縁の内側へと移行して、家内の精霊棚になる家庭を示しているように思える。
 家内の精霊棚に家の先祖の精霊を祀るのだが、別に机の横の位置に里芋の葉や芭蕉葉を敷いて、供え物の品々をぶっこみにして入れ、何本もの精霊箸を立てておく。これをフケジョロ、ホカゼロ、ガキドンなどとよぶ。先祖の精霊たちについてきた祀る人のない無縁の霊に供えるという。こうしないと精霊たちの御馳走に手を突っこんで荒すからだという。

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