年末年始

『宮崎県史 資料編 民俗2』(平成4年3月)小野重朗執筆分より。引用の際には原本をご確認下さい。

1 正月の準備

十二月十三日

現在は正月準備といえば大晦日のように思われているが、元は正月の用意をはじめるのは十二月十三日と決まっていた。これは全県的なまた全国的な伝承であった。この日に正月の用意をすることを、三股町ではこの日に正月の用意をすることをコトハジメとよんでいた。この日の仕事で最も大切なのはトシギキリであった。トシギは年木で、またセツギ(節木)ともいって正月にいろいろ用いる木のことである。年木は本来は正月の焚きものにする木のことで、その中でも特に大きいものを(年太郎)といって、大晦日に囲炉裏に燃しはじめるのに用いる。また節木は薪状にして家の前庭に束ねて立てたり、家や小屋などの前柱の根方に二本づつ立てたり、門松の根方にも立てたりする。これらは正月の最も基本的な飾りになる木で、ほとんど山のカシノキを切ってくる。今でも椎葉などの山地の家では十二月の早い日にカシの節木を多く伐って庭の脇に積んで置いてあるのをみることができる。
 十二月十三日にはまた正月用の箸を作るものだった。カシノキ、シイノキを用いて家族全員の、トシトリの晩から正月用に使う箸を削った。その役も男の仕事になっていた。南郷村鬼神野で聞いたところでは一家の一年分の箸を作ったものだという。
 明治から大正の頃にかけては十二月十三日には下男、下女の出替りがあった。そのことを多く伝承しているのは諸県地方である。その頃、下男はデカン、下女はメロと呼ばれていて、十二月十三日までの一年契約で、この日に年木を伐ってくると、ソバなどの接待をうけ、里の親がきて一年間の賃金の清算をして、もう一年残るもの、行李を担いで次の雇主の宿に移っていくものなど様々であった。地区の青年がそれらの歓送迎会を開いたりして賑わった。新暦になってから、この出替りの日を月遅れの一月十三日にした地方が多く、一月十三日の正月の行事のように思われることになった。

餅搗き

正月の餅は年末の二十五日から二十八日のあたりに搗いて、二十九日には搗くものではないといわれる。二十九日には苦を搗くことになるという。また、午の日にも餅は搗かないものという。餅搗きは近隣数戸で集まって次々に搗いて廻ることがよく行なわれ、その時は数人が棒杵の長いのを用いて臼を回ってつき、その後で普通の横杵でつくことが多かった。各戸何斗と搗くので、早朝暗い内に起きてランプを点して搗いた。
 正月の飾りの鏡餅はハマ餅とよばれることが多い。床の間や、仏壇、大黒様や農家では穀櫃、漁家では沖箱の前などに飾られる。親元や親類に贈る祝い餅があり、元日に一家揃って食べる歯固め餅がある。

大正月の飾り物

餅をはじめとして大晦日に飾りつけられるのがほとんどであるが、その飾りの素材として重要なのは餅のほかに、注連縄、トビ、それにユズリハがある。
 注連縄は左ないのワラ縄で、ワラのすじを七、五、三本垂らすこともある。年縄、祝い縄といって門口の門松に張り、表の間の障子に添って張り、大黒、火の神、氏の神などの棚の上などに張る。殊に家の神の祝い縄は年々張り加えてあるものが多い。
 この注連縄には正月に限ってトビやユズリハをはさむ。トビとは米粒を数粒ずつ白紙に包んで、その部分を麻などの繊維で結び垂らしたものである。トビノコメというが米とは限らず、県北の山地ではアワ、ヒエの粒や小豆の粒を入れたトビもある。またコンブの刻んだもの、干柿の刻んだものを入れる例もある。注連縄をはじめ、大正月のものにはみなこれをつけて祝う。地方によってトビの紙の包み方はいろいろだが、穀物の量が少ないので、紙の裾が広く垂れた形は変りはない。大正月の物にみなつけるのは供物の意味から始まって祝い物となっているのである。
 大正月の祝いものの植物ではユズリハが最もよく用いられる。ユズリハ、ユズルハともいうが、ツルノハ、ツンノハと呼ばれることも多い。浅い山に自生する常緑樹で、新葉が伸びてから旧葉が落ちることから、この和名があるが、これを正月の植物に使うのもそのことに由来しているといわれている。枝のまま用いたり、一枚ずつの葉を用いたりする。門松に添え、節木に飾り、注連縄にも一枚ずつ挾んで張る。ユズリハとともウラジロもよく用いられるが、県北にはこれがあまり多くないといい、この代りのようにしてシキミの柴などがユズリハと併せて用いられている。

門松と節木

門松には特別に異なった形はみられない。門口の両側に松や竹を立て、その間に注連縄を張ってそれにユズリハ、ウラジロ、橙の実、昆布など、それにトビを加えて飾るのが一般の形である。松や竹に大きなシイ、カシの木を副え立てたり、これが主木となる例も山地には多い。門松の根にはシラスという火山灰の白砂や川砂を盛るのが普通で、そこに次に述べる節木(年木)を三本ほど斜めに立てかける。これらは正月六日の鬼火の材料に子供たちがもらい集める例が多いが、小正月の十四日に取り去る例もある。シラスは門松の根に盛るだけでなく、多量に運んできて正月を迎える前庭や墓地などに敷きひろげる。
 節木(セツギ)=年木(トシギ)は注目すべき正月の飾り木である。前記のように十二月十三日がこの木を山から伐り出してくる日であったが、今は適当な日に伐ってくる。節木、年木の呼称は地方的には入り混ざっているが同じもので、古くは正月用の薪が儀礼化したものと思われるが、この用い方はいろいろある。一つは家の前庭の中ほどの所や家氏神の祠の前などに節木を飾る。長さ五十センチほどの丸太のまま、または割った節木を十数本束ねたものを立て、その上にユズリハの枝とウラジロの葉とを飾る。正月の庭の飾りにふさわしいものである。宮崎市から清武町の方まで、この飾りが行なわれていたが、早く消失して見ることができない。
 現在も東臼杵・西臼杵地方で見ることができるのは家の外柱などに立て掛けて飾る節木である。主屋の前柱(特に戸口の両側の柱)、納屋、馬屋、屋敷神の祠、便所などの柱、または、柱の根石に二本(ときに一本)の節木を設けるので門松に似た感じになる。また門松の根方にも数本の節木を立てかけるし、家によっては墓地の墓一基ごとに節木を一本ずつ立てかける例もある。正月を迎えて家の柱に新しい力を得させるためであろうか。
 また椎葉村の幾つもの集落ではだいぶ細目の節木の十二本(旧暦の閏年には十三本)をカズラで束ね、それにユズリハの枝やトビを添えて、庭や畑からその都市のアキ方(東方)に向けて置く。アキ方の神に今年中の幸運を祈るのだという。同様の節木のもっと小さい束を家の棚に供える例もある。

おおばん竿と祝い大根

オウバンザオというのは長さ一  以上の木竿を台所の土間の壁に吊り、それにいろいろの掛けものをして祝うのである。県南の漁村には広くみられたが、家が改まって台所に土間がなくなって急に消失した。近年に見た宮崎市折生迫の例では長年使ったカシの竿の両側に二本ずつ葉を結んだ聖護院大根の丸いのを掛け中央にはオナガという魚が丸のまま掛けてあった。漁業の釣り針と糸も掛けてあった。魚は少しずつ包丁を入れて切りとって食べ、正月二十日までには頭と骨だけになり、二十日にははずして大根と煮しめにして食べるという。オウバン竿のオウバンは椀飯のことで御馳走の意だという。
 祝イ大根というのもこれに関係が深い。県南の諸県地方などでは、台所(諸県地方ではナカエという)の後ろ隅には高い所に大黒棚が吊られて煤けた大黒像が祀られているが、その下に棒を吊るか、注連縄を張り、それに大根を掛ける。これを祝イ大根というがオウバン芋も祝イ大根もともに大根が中心である。これらは台所の神である大黒神や火の神といった家の神への正月の供えものなのである。

  2 大晦日の行事

農具祝い

大晦日の夕方までに、農具小屋の農具の鍬、犁、鎌、鉈、臼、杵などをよく洗ってむしろの上に並べ、その前に餅とユズリハ、ウラジロを飾り、それぞれの農具などの柄に一つ一つトビを結びつける。これを北諸県郡高崎町などでは道具休メというのは、こうして一年間使ってきた農具をこの日になって休ませ、眠らせておいて、正月の初めにそれを使い始め、目覚めさせるのである。道具休メという言葉は、道具祝イ、農具祝イというよりも、この行事のより古い意味を教えているものと思われる。漁村でもこれに相当する行事に漁具祝いがあり、漁網や磯箱などに正月餅を供えている。

年太郎

これは年の夜と言われる大晦日の夜の大切な行事であったが、今では、家々の囲炉裏が失われて、この行事はまったく行なわれなくなった。年太郎というのは大きなカシの節木のことで、これを家の囲炉裏で燃しはじめるのである。節木は十二月十三日に伐っておき、いろいろの正月飾りに用いることは前に記したが、その節木のもう一つの用途がこれである。年太郎にする節木は直径二〇センチ、長さは一  を超すほどで、もっと大きければなおよい。年太郎用に特別に大きい樫木を伐っておき、そのまだ生木のものを年の夜の薪として燃しはじめる。囲炉裏には普通の薪とは別に大きな樫の薪を副えて焚くもので、これを一般にはヒノトギ(火の伽)というのは、これが囲炉裏の火の話相手になって夜も火を絶やさぬ役目をするからである。そのヒノトギの内、大晦日の晩に燃しはじめるのを一般に年太郎と呼ぶもので、県南ではただヒノトギという場合が多く、県中、県北では年太郎と交って年玉とよぶ例も多く聞かれる。この名称からみてもこの木が重要な意味をもっていたことが理解される。年改まる時の新しい火を燃し始めるのである。今では夜中の十二時に年は改まると思われているが、実はこの年太郎を燃し始める時に、すなわち年の夜早々に年は改まったのではあるまいか。
 年太郎の木尻は囲炉裏の突尻という土間側に長く突き出しておいて、燃えるにつれて抱えこんで長く燃え続けさせる。三日三晩燃え続けるとも、七日正月まで燃えつづけるのがいいとも、小正月の十四日まで燃え続ければその年は豊作になるとも言う。大晦日には囲炉裏の火をなるべく大きく明るく燃すというが、この時に年太郎の燃えた部分が軟らかく凹んで燃えるとその年は作物が豊年になると、五ヶ瀬、高千穂地方ではいう。この地方ではまた年太郎にはカシだけでなく、クヌギも用いるものだという。
 年太郎についてはその燃え残りの部分にいろいろ呪力があると考えられている。燃え残りの木口の部分を残しておいて、囲炉裏の隅においたり、床下に置くと、田植えの時期の留守番をしてくれるとか、盗人の番をしてくれるという。この燃え残りを戸口の戸袋の下においておくと盗人除け、魔除けになるという。椎葉村尾前では、年太郎の長いものを小年まで焚いて、残りの部分を鉈、鎌の柄にするものだったと聞いた。

年飯

大晦日の年の夜に食べる夕食を、年取りの膳とか、トシメシといって白飯を食べるものだった。これを食べて年を取るのだという意識がある。年太郎の囲炉裏の火を盛んに燃し、神仏にも灯を点して、一家揃って年飯を食べて年をとる。年越しソバは後に伝わった習俗であろうが、これを運ソバといって来る一年の運をかきこむのだという。

  3 年頭の行事

若水汲み

正月元日は古くからの伝承では、静かに慎しんで過し、あまり音を立てぬようにと、掃除もせず、包丁も使わず、風呂も入らぬようにするものだという。一年の最初の日は忌みの日であった。そうした中で元旦早々にすることがあった。それが若水汲みである。
 村々に水道が完備するまでは、山地では谷川の水を汲んで飯用にしたし、集落で一、二か所の涌水の井川を協同して用いた。若水はこの水を汲むのである。若水は一日の早朝まだ暗いうちに汲む。一番鶏の鳴く頃、午前三時頃などという。汲むのは家の戸主とも主婦とも言われて決まっていない。水桶には注連縄を巻き、トビとユズリハをそえたもの、柄杓にもトビを結んだのをもって井川に行き、トビの米をまいて、若水を汲む。このときに「新玉の、年の始めに杓とりて、万の宝、我ぞ汲みとる」とか「福汲む、徳汲む、幸汲む、万の宝を今ぞ汲みとる」などと目出たい唱え言をするものだった。若水汲みの行き帰りの途中で他人に会っても物言わず通りすぎねばならぬという。
 汲んできた若水では茶を沸かして神仏に供え、家族みなで飲む。この時に用いる茶の葉は八十八夜に摘みはじめたものを使うものだといって、八十八夜には少々でも茶摘みをして茶を作り正月までとっておく習慣がある。また若水では元日に食べる里芋などを煮るのに用いる。
 また汲んできた若水を用いて作占、年占をするのも県下に広くみられた。これには二種ある。餅を用いてするものと、米粒を用いてするものである。餅を用いるのは県南の諸県地方から鹿児島県に続いている。若水を汲んでくると、その桶の水に主婦など汲んだ人が正月の丸餅を一つ落す。餅は沈んでいき底についたとき表向きか裏返しかによってその年の天候を占うのである。丸く膨れた側が表になると雨年(雨のよく降る年)といい、裏になると日年(日照りの強い年)だという。それをそのまま箸に貫いて台所に残しておいたりする例もある。米粒を用いるのは県北の椎葉など山村でよく聞く。これも戸主などが若水を汲んできた桶に一粒ずつ米粒を落しながら、米、粟、小豆、大豆、とうきびなどの名を言う。その水に沈み方によってその穀物のその年の豊凶を占う。米粒がすっと真直ぐに沈んでいけば豊作、ゆらゆらとゆれて沈めば凶作になるという。

若潮汲み

若水汲みによく似ているのは県北から県南までの海辺の集落で一月一日の早朝に海にでて若潮を汲む行事である。例えば串間市の市来は元日早朝に家々から一人ずつ、小さな潮汲桶をもってなぎさに出て初日を拝み、波先の海水を汲みとって帰る。笹葉に潮水をつけて振りかけて、屋敷、氏神、井戸、竃などを清めて回る。このような潮汲みは一般には浜下りといって月々の一日とか十五夜とか祭りの日などに行われるものであるが、これは正月の若水汲みとよく似ており、その古い姿を思わせるものがある。

元日の食物

元日の食物といえば雑煮が考えられるが、大正期頃の話には雑煮の話はあまりでて来ない。里芋を食べたという話が多い。椎葉村不土野のでは元旦には御飯を炊かず、若水を使って里芋、または山芋を炊いて塩味にして食べる。これをオカン(御羮)といって椀に盛って食べるもので、他にはあまり御馳走はなかった。南郷村水清谷では里芋の親芋、子芋をゆでておいて、元日の朝には、これに味噌をつけて串に刺し、囲炉裏の火にあぶって、これを中心にして食べた。西米良町小川ではグーノイモといって里芋を炊いて塩味にし椀に盛り、膳にのせてこれだけを食べたという。
 正月の食物として忘れてならぬのはハガタメのことである。ハガタメは歯固めで、正月に固いものを食べて歯を丈夫にするとも、歯は齢のことで齢を固めて長寿を祝うものとも言われる。宮崎では歯固めとして餅や干柿がよく聞かれるが、椎葉村不土野、日添の椎葉秀行夫妻から聞いた歯固めの話は最も詳しいものである。正月は元日から三日位までは食卓に四つの歯固めの食物を出しておいて、食事のときに少しずつ食べた。四つというのは第一は丸餅で焼いたもの。第二は猪の肉で、多くは塩漬けにしたもの。これが最も大切だといって、無いときには掌に猪の絵を描いて食べる真似事でもするものだという。第三は干柿。どの家にも柿の木があって必ず干柿を作った。第四はカチ栗。よく干した栗の実をカラウスで搗いて渋皮までとったもの。カチ栗は搗いた栗の意だが縁起のいい勝栗と書いている。この歯固めの四品は古くから重要な食物であるとともに、みな歯に固い食物である点が共通している。

年頭回り

元日は静かに過して、二日、三日に正月の挨拶に回ることを年頭回りといったり、ただネンツともいった。正月歩きなどともいう。特に先祖元、親元などに行くことは先祖参り。親元回り、親見参などという。親元とか仲人のところなどに特製の大きな鏡餅をもって行くのを正月礼などという。親戚など近しい家に持っていくのは元は餅、米、砂糖、白紙、下駄、足袋、メダレ布、オコシ、衣類などで、これを大きな三布風呂敷(三幅の大風呂敷)に包んで背負って行くものであった。家々の主婦はその接待に忙しいめにあうので、小正月には女の正月というのがあるのだという。
 正月の挨拶回りの代りに寄り正月(えびの市大河内)とか正月講(西都市下三財)といって近隣の組の者が宿を決めて集まって小宴をひらくのは生活の合理化であったかも知れない。一般に正月の挨拶言葉は「結構な春になりやんした」「いい春になりやんした」というものだった。

二日仕事始め

元日には若水を汲み、正月二日には早朝から仕事始めをする仕来りである。仕事始めで最も盛んに行なわれるのは山に入って木を伐り始めるもので二日山、山の口開け、若木伐りなどという。次に事例は少ないが田畑の耕やし初めで鍬入レとか田打チなどがある。漁船の仕事初めは乗り初メとか船祝イといい、商業のし始めは二日商イなどという。風呂の入り始めは二日風呂、文字の書き始めは書き初め、夢の見初めは初夢など。
 正月の仕事始めにはこれらの二日のものともう一つ、正月十一日のものとがあるので、それをはっきり区別するために、二日仕事始めと十一日仕事始めに分けて述べることにする。なお、正月三日はフジョジュニチ(不成就日)といって、もの事の成就しない日といって、仕事始めはしない日となっており、正月四日に仕事始めをする職場を時にみうけることがある。

山の口開けと若木伐り

現在も行なわれている例は相当に多く、その伝承は県下の全市町村に山地と平地に関係なく分布している。家の男たちが祝ってある鉈、斧をもって山に行きシイ、カシなど堅木を伐って薪にして持ち帰る。この名称は多くはヤマンクツアケ(山の口開け)と呼ばれるが、諸県地方(えびの市、小林市、都城市を含む東・北諸県郡)ではフツカヤマ(二日山)また時にアサヤマ(朝山)と呼び、この名称は鹿児島県に続いている。またその時の仕事には山で薪を伐って束ねて持ち帰るものと、一本の長木のままに担いて持ち帰り、それを家の前庭にトビをつけて立てるものと二つに分けられる。後者の場合、その庭に立てる木を若木というので、これを若木伐りと呼ぶことが多い。若木を立てる地方は宮崎県を縦に二つに割って西側の山地側に広く分布しているのがみられる。
 例えば北諸県郡三股町長田では二日山とも山の口開けともいって、正月二日の早朝、三時頃に家の男たちは祝ってある鉈、鋸をもって、その年の明き方(その年の吉の方向、暦で見れば分る。正月一日の朝、牛が寝ている方向で知れるともいう。)の山に行ってカシなどを伐り、薪にして持ち帰る。元は馬を連れていき、六束ほども負わせて持ち帰るものだった。二日山から帰ると二日風呂がわかしてあって、それに入って後に鉈や鍬に供えてあった餅を煮て食べる。明き方に自分の山がなければ誰の家の山の木を伐っても構わぬというものだった。都城市太郎坊のような広い平地の集落では集まって毎年、隣りの高城町の山の集落にいって集団で二日山をし薪をきり、その地の人々と宴をひらく習慣だった。
 また例えば椎葉村不土野、古枝尾では今も集落の半数ほどの家で若木伐りをしている。二日は早朝に男たちは鉈、斧などをもって自家の山に行き、山の神に塩、米を供え、山の神幣を立てて拝んでから、真直ぐなカシの木の三、四メートルのもの三本を伐って下枝だけを払って担いで帰る。旧暦で正月をした頃には、この若木を山から里へ担いで下る時にはみな春節を歌うものだった。「春は花咲く木茅も芽立つ、人の気も伸ふ、気も勇む」などと歌った。この日の朝は集落の山や里でこの歌声があちこちで聞えて、春らしい気分になるものだった。若木を持ち帰ると一本ずつの頂に近くトビの紙を結びつける。立てる場所は家のコザの前とウチネーの前の庭に一本ずつと納屋の前庭に一本立てる。これは正月の終る二十日まで立てておいて薪にする。若木の立て方には地方ごとに変化があって、同じ椎葉でも家の男の数だけを並べて庭に立てる所もある。西米良村には地区の子供組が山からカシを多く伐ってきて一軒ずつに若木を立てて回って餅などの供応を受ける行事もあった。また若木はそのまま立てておいて田植えの時の炊事に用いるという西郷村田代のような例もある。

狩り始め

東西の両臼杵郡では猟用の鉄砲をもっていき狩をする人が正月始めに、鉄砲をうったり、集まって初狩りをする例がある。高千穂町秋元では除夜の鐘が鳴り終ると鉄砲を持っている人は空砲を空に向って打つ。これを山の口開けといい、その夜明けになると若木伐りをするという。鉄砲のうち始めが二日でなく一日であること、名称が山の口開けになっているのが特徴だが、狩り始めにはこうした例が相当に多い。東郷村坪谷では初狩りといって地区の者が鉄砲などもって兎狩りをして、その獲物を肴にして新年の会をする。期日は二日から五日までの間でこのような例も点々とある。

仕事始め

特に木を伐るのでもなく、田畑を耕やすのでもなく、二日朝に身辺の仕事をする仕事始めもみられる。五ヶ瀬町一帯では牛につけて犂を引かせるヒキオ(牽緒)をワラでなう。できあがるとその綱を「唐団扇」「ガッサイ(合切袋)」などという名のついた飾り結びにしてデイの間の壁に掛けておくものであった。これを初仕事とも仕事始めともいった。

鍬入レ

畑や田の仕事始めだが、山の口開けのように形がきまったものが少ない。分布も山の口開けが全県的であるのに対して、宮崎市を中心にした平地に集中している。例えば宮崎郡清武町一帯では正月二日の早朝に鍬とユズリハの枝をもって苗代田に行き、鍬で三鍬打ってそこにユズリハを立てて拝んでくる。これを鍬入レとも作始メともいう。また串間市都井では鍬を持って畑か田を打ってユズリハをさしてくる二日の行事があったが、これを田打チとも畑の口開けともいった。

船祝イ

漁村の仕事始めは正月二日ばかりである。漁船の場合は県南では多くは船祝イといい、県北では乗り初メという傾向がある。それぞれの船に大漁旗を飾り、船主や船頭が船玉様を祭り、陸に向って餅や蜜柑をまいてから、港内や港外を一巡りしてくる。県南では船団を作って海から鵜戸神宮に参拝するものが多い。帰って船主宅で祝宴を張り、このときに元は乗組みの二年の契約をし、船上の仕事割りも決めるものだった。大敷網などでも二日に網祝イ、大玉祝イ(網玉様の祝い)というのをして、網元の家で賑やかに祝宴をする。現在、漁村特有の大宴会も廃れる傾向にあるという。

初商イ

古くからの商家では正月二日に、初アキネーとか二日アキネーといって早朝から店を開いて商い初めをした。早朝に来る客に景品の雨傘や手拭などをくれたり、大安売りしたりするので焼酎を甕で買いだめするような家もあるものだった。

六日年の飾り物

正月六日のことをムイカドシ、ムカドシといっていろいろの行事がある。七日は七日正月とか七日ン節といいこれも重要な日とされる。六日年には県下に広くモロメギ(ボロメギ、モロムギ、モロバなどといい和名はイヌガヤ。常緑針葉樹)とダラノキ(ダラなどといい和名はタラノキ。落葉漢木で茎に鋭い刺がある)の枝を飾る習慣で六日をモロメギ祝という例もある。門松や節木を飾ったところにはこれらの小枝を添えて立てる。年縄にも掛けるし、家の神である大黒、火の神をはじめ、屋敷の氏神、荒神、墓地の墓にも供える。これら二つの植物は魔除け、悪祓いの力があるものとされる。椎葉村尾前などでは火の神の蛇打ち棒といって、これを供えておくと家に蛇が入ってこないという。モロメギの葉も先が針になっているが、こちらは火に燃すと葉がパチパチ大きな音を立てるのが魔除けになるのかも知れない。
 モロメギ焚きといって串間市の一帯では六日の夜に、モロメギの枝を囲炉裏にくべて燃す。パチパチ葉がはじけて出す音で悪払いをするという。その時に「鬼は外、福は内」と呼ぶこともあったという。このことと関係があるのは六日年または七日正月にモロメギの葉を燃して年占をする行事である。例えば、宮崎市金崎の農家では六日の夜に作試をするものだった。主人が囲炉裏の横座に座って薪をどんどん燃し、モロメギの葉を一枚とって火箸ではさんで「稲出来」といって火の上におく。それがはじけてパチッといい音がすれば今年の稲は豊作、ブスッと鈍い音なら不作と占う。次々と麦、粟、ソバ、大豆といったふうに占うのである。このモロメギの作占は宮崎市周辺から県北にかけて広く行なわれるものであった。六日の夜に囲炉裏にモロメギを燃してその音で鬼や魔を払うことから、この作占に発展したらしいことがその宮崎県内の分布から考えられる。
 このほか魔を払い除けるのに、例えば県北の北浦町本村では焦がした鰯の頭を串に刺して戸口にさしたという。

鬼火

鬼を追い払うといって六日の夜か7日の朝に集落の子供たちが中心になって大火を燃して竹を爆かせる行事は現在も盛んである。鬼火系のオネビタキ、オネッコ、鬼ノ目焼キなどというのが主流だが、諸県地方の北部や西臼杵地方ではタケハシラカシと呼ぶ例が多い。そうした中に時にドンド、ドンドヤキというのが原地の集落に聞かれるが、これは大分県など九州北部にみられる小正月の十四日の火焚き行事の名称を用いたものである。
 一例を記すと、北諸県郡山之口町富吉では子供組の者が正月七日に家々の門松、節木、ワラなどを貰い集め、田圃に孟宗竹を心柱にして門松、薪などを積み上げ七日夜に火をつけて燃す。竹が爆けて大きな音がするとみな歓声をあげる。大人たちもこの火に温たまると一年中健康になるといって集まる。燃えた心柱の孟宗竹が倒れると、その倒れた方向の家々や田畑は豊作になるという。焼け焦げた笹を牛馬に食べさせると健康になるといって持ち帰る人がいる。このオネッコの時に、猟銃をもつ人は鬼ノ目射リといって空砲を空に向けて打つものだった。またこの地方には鬼火の後、夜中に行って灰を掻いてみると鬼の落した餅が丁度食べごろに焼けているという話も聞かれる。
 鬼火の燃え残りの竹は門口などに立てておくと魔除け病気防ぎになるというし、これを床下に入れておくと家に蛇が入ってこないという。それに対して、東西の臼杵郡山地一帯では、燃え残りの竹を用いて、いろいろ作り物をする。鬼ノ目ハジキというのは竹を十ほどに割って四方に垂らしたもの、鬼腕曲ゲというのは竹をねじり曲げて輪にしたもの、鬼シバリは割り竹を編んだものなど、これらは門口や畑に立てておき、害虫やモグラ除けにするという。

蘇民将来の札

椎葉村川の口の勘米良畩市家などでは鬼火をたく七日の朝には戸主がこの札を短冊形の小さい白紙に書く。「蘇民将来子孫大福長者不老門」と一行にかいて、その門の下に入るように一筆書きの星形を描き入れる。これを家り表側の柱に一本おきにはりつけて家の厄除けにする。このときまた「蘇民将来」と星だけ書いた小さい紙を家族数だけ作り、子どもには着物の衿元に縫い付けてやる。七日の夕方の鬼火焚きの時に、この各人の持っている蘇民将来の札は鬼火に燃やしてしまう。また椎葉村十根川の那須恒 家では年末に門松を立てるときに、「蘇民将来子孫門也」と書いた紙を門松に渡すしめ縄につける。これも厄除けのためという。この蘇民将来というのは説話の主人公で、巨旦将来の兄。貧しい神に宿を貸し粟がゆをもてなし栄え、その子孫は災厄を免れることを神に約束されたが、富裕な弟ま巨旦は宿を貸さなかったために滅びたという。(備後風土記)

七草雑炊

正月には元旦から六日まで青もの(青野菜)を食べないきまりだったことは椎葉の古い文書にでてくるので知ることができる。正月料理に豆もやしがよく用いられるのはそのためであるらしい。七日は青野菜食べ始めの日で、この日野に摘み草をして七草雑炊を作って食べる。特にどの植物というのでなく幾つもの青ものを茹でて炊く。この茹で汁を手足や肌につければ健康になるといい、家の柱の根方に注ぐと、白蟻などを防ぐという。
 この七草雑炊を七歳になった子供が、近隣七軒分をもらって回り、食べるのを七所雑炊、七所祝イなどといって、諸県地方の全域から宮崎市、西都市あたりまで行なわれてきた。近年は晴着をつけて回り、祝儀の金をもらったり、神社に参ったりと派手な祝い行事に変ってきた。

十一日の仕事始め

正月二日の仕事始めに対して、正月十一日にもう一つの仕事始めが行なわれる。二日の仕事始めが山の口開けや船祝イのような山の仕事や海の仕事など古風なものが中心であったのに対して、正月十一日の仕事始めは田や畑の仕事始めの田打チ、作始メや、商家の大福帳を作って祀る帳祝イなどのだいぶ進んだ生業の仕事始めが中心になり、その行事も複雑なものとなっているのが特徴である。

田打チ

田を打ち始める行事には多くの名称がある。田打ちをはじめとして、田打チ始メ、田起シ、作始メ、鍬入レ、田ノ神祝イなどいろいろである。そうした中で一月二日のものは鍬入レというのが多く、一月十一日のものは田打チ、と呼ぶことが多い。一月二日の場合は宮崎市を中心とした地域に少々の例が知られているのに対して、十一日の田または畑の仕事始めは県下全体に広く分布しており現在も行なわれている地方が多い。田打チの方法は二日の鍬入レとほとんど変りはない。家の主人や主婦が鍬とユズリハ、洗米、餅などを持って、自家の苗代田に行き、明キ方を向いて三鍬打ち、ユズリハの枝を立て、洗米をまき、餅を供えて拝むのである。この時に立てる植物はほぼ全県的にユズリハとなっているが、ウラジロを添える例も多い。宮崎市、宮崎郡ではネリモチ(和名ネズミモチ)を立てるもの、東諸県郡にかけてはシイ、カシの柴を立てる例もみうける。県南の地方ではこのときに「一鍬打っては千石、二鍬打っては二千石、三鍬打っては三千石」とめでたい唱え言をする例がみられる。
 この田打チに伴なって正月十一日には家の神である大黒様がこの日朝早く田に出て行かれるという伝承のある地方がある。それは日向市、延岡市を含めて東西の臼杵郡の地域全体に聞かれる伝承である。例えば日向市(旧富高町)中村では正月十一日は大黒様が家を出て田に仕事に行かれる日だといい、大黒様送りといってこの日の朝は家の主人が、大黒棚に供えてある正月餅の大きな二つ重ねの餅と鍬、ユズリハ、ウラジロを持って、苗代田に行き、鍬で田を掘り、その土の穴にウラジロを敷いて、二重ねの大黒の餅を置き、その上にユズリハを被せ、その上に土を被せて、餅を田に埋める。そして「本年モ大黒様ウントハリコンデ、働イテクダサイ」と願って拝んでくる。こうして田にでた大黒様は旧暦十月の初亥ノ子の日に家に帰ってこられるので、この日は新米の大きな餅をついて菊の花で飾って、大黒様迎えをする。正月十一日に大黒様が出られるのは田とは限らず、椎葉村や五ヶ瀬町など焼き畑地帯では大黒様の山行キといって山の焼畑地に働きに行かれるという。正月十一日の農耕仕事始めに農作神としての大黒神信仰が成立して加わったと考えることができよう。

帳祝イ

帳というのは大福帳のことで商家で売買の勘定を記入する台帳のこと。新しい年の大福帳を作ってこれを恵比須、大黒に供えて祝うのが帳祝イである。宮崎市周辺から広く県下に分布してみられる。大福帳は行なわれなくなった現在も、この日に恵比須、大黒に供え物をする習慣は残っている。興味深いのは、帳祝イといいながら実は田打チの行事をしている農家が東臼杵郡の諸町村に点々とあることである。近世の経済生活の習慣がこれらの農村にも浸透したことを示していよう。正月十一日を倉の口開けとか倉の開け初めといって倉の扉を開いて使い始めるという例が聞かれることがある。このようにして十一日の仕事始めは新しく展開した生活の仕事始めとしての性格が強い。太鼓の口開けといってこの日神社で神楽の舞い始めをするところもある。

鏡開き

大正月が十日で終るので、十一日に神仏に供えてある鏡餅を下して割って、ぜんざいなどにして食べる。北諸県郡から都城市にかけては集落にある里寺などに供えた正月の餅を下して門徒が集まって食べる法要を鏡割リといって、これは正月四日の行事となっている。