宮崎県の民俗研究は常に県外の研究者が主体に進んできた。それは日本民俗学の生みの親である柳田國男が初めて民俗調査を行った地であり、それをまとめた『後狩詞記』という書のもつ魅力が、奥日向への幻想をかき立てたのであろう。次々と椎葉村をはじめとした宮崎県の山村へと研究者が足を運んだ。
【柳田國男】
柳田國男が宮崎県へと視察をかねた調査に入ったのが、明治四十一年(椎葉村他)であった。その経験は明治四十二年に刊行された『後狩詞記』にまとめられ、日本民俗学構想の一歩を踏み出したのである。柳田國男が法制参事官として宮崎を訪れた様子は、『九州日日新聞』や『鹿児島実業新聞』に取り上げられている。当時の宮崎県地元紙『日州』にも記載されているはずであるが、その時期の新聞が県内の図書館・新聞社に保存されておらず確認することができない。ここでは『九州日日新聞』より柳田國男の動向を見ていく。
『九州日日新聞』(明治四一年六月一六日、二頁)
●柳田参事官談片(人吉に於ける)
柳田参事官は去十三日人吉着鍋屋旅館に投じ十四日午前人吉城址其他を観午後一時より人吉二ノ町本願寺別院に於て人吉町民が汽車開通を歓喜する中に不祥の言をなすは祝言の場に経読む嫌あるも便利と弊害は伴う者なる事を深く留意せられたし子が見聞の実体によるも汽車通ぜし為め職業を失うもの又は衰頽を来す町村は決して尠少ならず往来頻繁になれば旅客より金を取る工夫すると云う者あるも是等は確実なる繁栄策にあらず基礎の確たる繁栄策はドウしても生産力を増すの一事に帰す根本を固めず一時的の浮薄なる旅人相手に大計をたてん等の考えのみにては鉄道延長も単に便利になりしと云うのみにて恐らく空喜びに帰せん宜しく利害得失を研究して永遠の賑殷を計られたし
▲生産業も各自区区別別にては発展緩るし組合を設け共同して製作し共同して売出すべし予は共同は道徳の一なりと信ずるもの也而して生産品は可成原料も労働者も土地にて得らるるものを撰擇すべし又産業組合は十年以前より奨励し法律もあり完全なる講義書の如きも出でをるに害虫駆除等の如く当局者の命令を待つなどは甚だ遺憾なり利益を認めば進んで組織すべき也、
▲球磨郡は僅の瞥見にて将来の方針等は無論判断出来ざるも諸君は多年此地に住し情況を審にせらるるなれば一定の方針講究せられたし中央政府の法律は普遍的のものにて勘案方針亦何所にも当てはまらるるものなれば気候其他の関係上より起る適不適は県の公共団体にて取捨せられたし然るに仮之漆植栽の利を県技手が話せば直に漆を植え樟の奨励をせば又漫然楠を植う如きは大に避くべき事たり其始めに於て十分の見当を定め土地に応じたるものに限り盛に手を加うべし雑駁に過ぐは発展を阻害するもの也云々と大要右の如き講話をあり十五日よりは五木多良木を廻り更に一勝地を経て鹿児島に向う筈なるが周く通知なかりし為め聴者僅三四十名なりしは遺憾なりし
『九州日日新聞』(明治四一年七月一二日、二頁)
●宮崎電報(十一日)
柳田参事官 柳田法制局参事官は一昨夜来宮昨日は郡会議事堂にて農政経済に関する講話を為したるが本日は西臼杵郡視察の為め本県技師渡部、平野、吉田の三氏を同行同地に赴けり
『九州日日新聞』(明治四一年七月一四日、五頁)
●宮崎たより
柳田参事官 法制局参事官柳田國男氏は西臼杵郡地方視察の為め本県技師渡部豊、吉田登、平野篤夫の三氏と同伴今十一日より当地を出発せり
『九州日日新聞』(明治四一年七月二一日、五頁)
●宮崎通信(十八日)
「柳田法制局参事官 目下西臼杵郡地方視察として出張中の法制局参事官柳田國男氏は明後十九日熊本県馬見原に出で夫れより三田井、延岡を経て土々呂に引返し二十三日頃同港より乗船大分県へ向う筈なり」
『九州日日新聞』(明治四一年七月二六日、五頁)
●宮崎通信(二十二日)
「柳田参事官の一行 西臼杵郡地方視察及び椎葉山探検として過日当地を出発したる柳田法制参事官、渡部、吉田、平野■県技師、桑原属の一行は十九日椎葉山中胡摩山の峻坂を越えて馬見原に出で二十日一行は二手に分れ吉田、平野の両技師は七ツ山方面へ向い柳田参事官、渡部技師、桑原属は三田井町着二十一日渡部技師は小山郡長と共に七ツ山又は塚原に於て吉田、平野の両技師と会同すべく柳田参事官は桑原本県属と共に大分県竹田へ向える由」
【折口信夫】
折口信夫は旅好きで、生徒らを連れて、各地を旅している。九州へは大正二年に、生徒梶喜一を連れて旅行している。大正六年には九月に九州旅行し、無断欠勤が一か月に及んだため、その年一月に教員として勤めた私立郁文館を免職されている。翌年大正七年八月、雑誌『土俗と伝説』を編集発行しているが、その雑誌に、大正七年十月、十二月に伊勢清志の名で「日向通信」という原稿を寄せている。伊勢清志は中学校教師として教えた門弟の名であったが、ここでは折口の筆名であったとされている。(池田弥三郎『日本民俗文化体系2 折口信夫』講談社)
「日向通信」(『土俗と伝説一ー三』大正七年十月)には、「景清の目球」「一息神」「大人弥五郎」「新しい村」「豆腐屋」「八朔七夕」「戎の祠」の項目が挙げられている。
「日向通信」(『土俗と伝説一ー四』大正七年十二月)には、「ひしゃくこ」「檍原明神」「矢大臣・左大臣」の項目が挙げられている。
【早川孝太郎・桜田勝徳】
昭和八年十一月、渋沢敬三のすすめで九州帝国大学農学部農業経済研究室の助手となっていた早川孝太郎は、小出満二教授に農学を学んでいた。昭和九年、当時同大学の長沼賢海の蒐集した古文書の整理などをしていた桜田勝徳とともに、二、三月にかけて、阿蘇から肥後・日向の山間部を跋渉した。
その時の調査の様子に関しては、桜田勝徳が「肥後めぐり」「椎葉紀行」として「大福帳」に記された内容が『桜田勝徳全集』に収められている。
「肥後めぐり」(『桜田勝徳全集■』)では、昭和九年二月十五日から十九日までの調査のなか、十六日に西臼杵郡鞍岡(現在五ヶ瀬町)に泊まり民具及び狩猟の調査を行っている。
〈二月十六日〉農具数種、足中の鼻緒の結び方の種類、足中の製作、日肥の国境、鞍岡村の本郷へ、水流、荒谷にて、物名、道の上の奉納物、狩の事、
「椎葉紀行」(『桜田勝徳全集■』)の冒頭は次のようである。
「昭和九年三月十七日朝七時半、早川氏と阿蘇郡高森町に着、直ちに三田井行きの自動車に乗ず。上野村と高千穂町の境にて下車。」
「椎葉紀行」には、項目ごとにメモが記されているので、これを紹介する。
〈三月十七日〉葛原辺り、メンパ、物名、三田井に入る、庄四郎氏談、五ヶ瀬川の漁、田原村河内聞書、
〈三月十八日〉物名、秋元へ、七ツ山越、茶屋、正月行事、カクウチ、臼太鼓、仮面、
〈三月十九日〉七ツ山、鳥の事など、窪という所、仲滝で、横尾にて、十根川にて、上椎葉へ、諸塚山の咄、柿の種類、
〈三月二十日〉那須定蔵の家、物名、椎葉の竈、センボン、椎葉の焼畑、鳥獣防、物名、食物、黒爪の狩犬、盲ナゲシ、小崎の山法師踊、春祭の的射、ヒノトギ、若木、尾八重にて、ケヤグイ、物名、上福良を眺む、村長の咄、正月行事、
〈三月二十一日〉桑弓野、嶽枝尾、与次郎老咄、新橋にて、大河内へ、箱車、神仏の数、物名、マイクモ、恥しい相談、共有山とヤボ、大河内本郷、印類、普請組、シデオリ、燈火と風呂、
〈三月二十二日〉矢立で、湯山へ、人吉に、
〈三月二十三日〉阿蘇登山記、
また、この年の十月十七日に、鹿児島県の百引村への調査の後に宮崎を訪れており、「豊後の都留」の冒頭にその状況が記されている。
【倉田一郎】
倉田一郎は、柳田國男と出会い、昭和九年一月に発足した木曜会の会員となり、この会を中心にした「日本僻陬諸村に於ける郷党生活の資料蒐集調査」いわゆる「全国山村調査」に参加している。倉田は昭和九年頃から椎葉村への調査を始めており、「昭和十一年(一九三六)には宮崎県児湯郡西米良村へ入り精力的に調査している」とある(戸塚ひろみ「解説ー倉田一郎、生涯とその業績ー」『日本民俗文化資料集成 第十六巻』三一書房)。
「焼畑覚書ー日向国西臼杵郡椎葉村ー」『ミネルヴァ(一ー三)』(昭和十一年)。この報告書末には「三・一七」とあり、昭和十一年三月十七日に報告をまとめたと考えられる。
「九州漁語抄ー日向日置漁村語彙ー」『方言 六ー一〇』(昭和十一年)。昭和十一年四月から五月にかけての九州調査をまとめたもので、そのうち宮崎県児湯郡富田村日置の調査は山本広太氏への聞き書きを元にしている。
このほか「ムラウツイ」『民間伝承三ー六』(昭和十三年二月)、「日向の『木おろし唄』」『文学(八ー一〇)』(昭和十五年)などを記している。
【宮本常一】
宮崎県を何度も訪れているにもかかわらず、宮崎県に関する記事は実に少ない。ただ、一編のみ「米良紀行」と題された文を『登山全書・随想編二』(昭和三十一年十月)に寄せている。米良地方の歴史について書かれた概説であるが、米良への調査について次のように記している。
「私がこの山中に足を入れたのは、昭和十五年二月二十二日であった。屋久島・大隅半島・日向南那珂郡と歩いて、いよいよ九州の旅行を終わるべく最後に訪れたのが米良であった。米良についてはそれまで何の知識ももちあわせなかったが、椎葉のほうは早く明治末年に柳田国男先生がおいでになって、この地での狩についての聞書を『後狩詞記』と題して公にせられているので、一度は訪れてみたいと思ったのである。」
二十一日の晩に杉安に宿泊し、二十二日に銀鏡へと足を運び、三晩も聞き取り調査を行ったことが記されている。
また、山村の調査に関しては、断片的に『山に生きる人びと』に記されている。例えば、椎葉村の塩の道、宮崎県北部に多いサンカ、九州山中の落人村、日向木炭、海から山への定住、山から里へ、九州山中の臼太鼓・念仏踊り、椎葉騒動などについて述べられている
【本田安次】
『本田安次著作集 日本の傳統藝能 第三巻 神楽Ⅲ』(錦正社、平成六年)には、九つの神楽が紹介されている。
「高千穂神楽」については、昭和三十一年七月二十五日から同年八月七日にかけて、財団法人神道文化会主催、高千穂阿蘇綜合学術調査団によって行われた調査への参加に始まる。その際の資料は小手川善次郎の資料を活字にしたものであった。その後、「もし、さうした覺書が殘つてゐるなら、私もそれのなるべく古いものを一見したいものと、高千穂町教育委員會の甲斐清喜氏に豫め依頼しておいて、昭和三十九年八月の九州旅行の途次お寄りした。」その際に用意された資料をもとに筆録したものである。
「鞍岡祇園神楽」は、昭和三十六年二月に、三十三番のうち十三番の神楽を佐貫正勝宮司らの好意で実演を見学したときの記録である。
「椎葉大河内の神楽」は、昭和三十九年八月十五日に西米良から入って、椎葉村大河内を訪れ、中竹政蔵氏の厚意により、神楽面や神楽台本の調査を行っている。
「銀鏡の神楽」は、昭和三十九年八月十四日、西米良に寄った次の日に銀鏡神社の浜砂正衛宮司に説明を受けながら、わざわざ披露された神楽を見学している。
「西米良の神楽」は、昭和三十九年八月十三日に採訪を行い、田爪末広・浜砂資太郎氏から話を聞いている。
このほか「天岩戸神社の神楽」「祓川の神舞」「狭野の神舞」などを紹介している。
昭和五十六年度から椎葉神楽調査団による学術調査が行われ、椎葉神楽記録作成委員会の委員長に本田安次(文化財保護審議会専門委員)が当たっている。これは総勢一五名による三カ年に及ぶ大規模な調査であった。
【千葉徳爾】
千葉徳爾は宮崎との関わりについて『みやざき民俗五〇号』に触れている。それによると、昭和十四年四月に旧制宮崎中学校に赴任してきた。郷土生活研究所から送られた山村調査手帳を元にした調査なども試みたが、十二月に東京の野砲部隊に入営し宮崎を離れることとなった。その後、昭和二十五年頃、柳田國男に宮崎行きを命ぜられ、宮崎を再訪することとなる。昭和三十八年冬と昭和三十九年冬に西都市銀鏡に調査に入っている。昭和三十九年に銀鏡神社大祭で神楽を拝観している。こうした狩猟を主とした調査内容は『狩猟伝承研究』(風間書房、昭和四十四年)をはじめとする著書にまとめられている。
【須藤功】
『山の標的』によると、須藤が宮崎県を訪れたのは、昭和四十四年の十一月初旬の、「高千穂町から椎葉村を経て西米良村までおよそ一三〇キロ、途中バスに乗ったところもあるが、山道のほとんどを一人で歩いた。」(一頁)という一週間の旅であった。その際の最後に西都市銀鏡で会った浜砂正衛宮司との出会いがその後の銀鏡訪問を続けたきっかけであったようだ。浜砂正衛宮司はその時すでに有名人であったという。
「銀鏡神社の正衛宮司の名はよく知られ、遠くから慕ってくる人もいた。学者や研究者も銀鏡地区に来たほとんどの人が正衛宮司をたずね、話を聞いている。早川孝太郎氏、宮本常一氏、本田安次氏、千葉徳爾氏らがいる。訪れてくる人とは別に、正衛宮司が願ってきてもらった人もいる。斉藤忠氏、八幡一郎氏、平泉澄氏、倉田一郎氏、岡田謙氏らで、昭和一七年のことである。」また、昭和二十五年六月には、日向史學會の銀鏡史蹟調査団の一行七名が訪れ、『日向史學 第一巻第四号ー東米良特輯號』(昭和二十九年一月)にまとめられた。